●「正しさ」というものに対する疑問がどうしてもある。正確には、「正しさ」のもつ排他性への疑問と言うべきか。正しさを根拠とした抗争、あるいは、正しい段取りによって保障されたものでなければ認められない、という空気が、どれだけ人を「嫌な抑圧」に向かわせるのか。
●リアルなものは常に胡散臭いはずではないか(「胡散臭い」ものすべてがリアルだとは言わないけど)。
●科学に対する批判として、「科学は万能ではない」というのはまったく有効ではない。科学は、自らが万能でも無誤謬でもなく逆に穴(問題)だらけでもあることを簡単に認めるだろう。そしてその上で、では科学の他に、科学以上に包括的で密度もあり、汎用性が高く、応用の利く体系がありますか、とつづけるだろう。われわれは実際に、われわれの生のあらゆる細部にまで浸透するほどの科学のもつ壮大な汎用性と応用性に屈服させられている。首根っこを押さえられている。その力は強大であり、その力の前でわれわれは、「現実」を突き付けられた子供のようにしょぼんとするしかない。
●しかし科学は常に、科学じゃないものとくっついている。科学と科学じゃないものの曖昧な混合体が、どのような言説が社会の中で支配的になるのかという時の排他的抗争の場面で、その道具としての恫喝的な「正しさ」を形作る。実際に、科学と科学じゃない何かは常に混同されていて、切り分けられない。おそらくそこから「リアリズム」は生まれる。
●ある説に対して、有効な反駁が成立しない時、それは暫定的に正しいとみなされる。それは確かに科学的な理屈だろう。しかし、社会は科学のアリーナではないし、その成員は科学者ばかりではない。それはどこか変なのではいかと思っても、それに対して有効な反論が口見つけられなければ、口をつぐむしかない。するとそれは、暫定的とはいえ、とりあえず「正しいということ」になる。
●おそらく、クールベが官展を批判して世界ではじめて個展を開いたくらいから本格化するのだろうけど、近代以降の芸術運動は基本的に、新たなステイトメントによって前の世代を否定してそれを乗り越えるという、闘争的、排他的、進化論的な傾向があったことは否定できない(クールベは論争好きだったらしいし)。彼らは既成のものへの反論として、自らの新しい理念の正しさを主張する。「お前ら古いよ、もう俺たちに乗り越えられちゃってんだよ宣言」の繰り返しとしての芸術史。それは、共産主義と同調するいわゆる前衛芸術の非歴史的理念を頂点とし、カント的な構えを根拠にもつ戦後アメリカ美術にまでつづく(いや、七十年代くらいまでの「美術手帖」もそんな感じだ)。少なくとも、「言説上」はそのようなものとしてあった。つまり(作品そのものがどうであるかという前に)、「作品」が社会化される時に、そのような構えをもつ言説抗争(批評と呼ばれる)によって支えられる必要があった。それはある程度は、ポパー的な科学的言説のあり様と歩調を合わせるものでもあったのだろう。
だが今では、そのような、闘争的、排他的、進化論的な言説闘争としての芸術(批評)のあり様は、完全に失効しているように思う。そもそも理念の進化であったはずのステイトメントの更新(理念の更新要求)は、現在ではせいぜい、社会の変化に対応した社会反映論として作品を正当化するような貧弱な言説として生き延びているだけではないか(「この作品はこんなにも現状に最適化してますよ」と言っているだけ)。それは、「その着こなしは去年の流行であって、今年のじゃない」と言っているに過ぎない。だから、近代以降の芸術の排他的で進化論的な「既成のものを否定して進んでゆく」モデルはもう終わったと言える。
(モデルが終わっても作品そのものも一緒に終わるとは限らない、クールベの絵は今もなお素晴らしい。)
●だが、そのあとにやってきた現在支配的なリアリズムは、実証主義とそれにもとづくプラグマティズムを客観(正当で公的なもの)とし、それ以外のものは個人的妄想や性癖の領域として囲い込み、その範囲にとどまる限りにおいてであれば何でも許容するという感じになっているのではないだろうか。要するに、理念のより良い、より正しい形への更新ではなく、結果が出たかどうかが淘汰の基準となり、役に立たない、非現実的なこだわりは、個人の妄想の範囲で個々人が上手く処理してよ、そっちはなんでもアリにしとくからさあ、というような。現実は厳しく淘汰され、その反動で妄想は垂れ流される。
●もちろん、そのような現実と幻想の切り分け(そして幻想の個人化)は実際には不可能である。不可能であるにも関わらず、切り分けが成立しているかのようにして行われる「客観(幻想から切り分けられたとされる現実)」の側からの「正しさ」への要求(これが「リアリズム」だ)が恫喝となる。だから「近代的」な理念的正しさへの抑圧とは別のメカニズムとして、ここにも別の、プラグマティックな「正しさ」の強要がある。
正しくなければならないという抑圧はつよい屈折を生み、そのはけ口には個人的妄想と性癖しか用意されない。そしてその結果、個人的妄想と性癖ばかりがはてしなく繁茂する(実際そうなっている)、のだとしたら、それは薄くて寒い世界だ(だから、「現実(こちら側)」の優位に対して「妄想(あちら側)」の優位を対置しても、つまり価値の転倒を主張してもダメだと思う、問題なのは本来不可分である現実と幻想が「切り分けられている(切り分け可能である)」ことが「前提になって」しまっていることだ)。糞の役にも立たない面倒な理屈はいらない、重要なのは「結果」だよ、というリアリズム的な「気分」の支配が、「結果として」自分自身を切り詰め、どんどん追い詰めることになる。
●たとえば、オウムを生んだのはポストモダンに隠されたロマン主義的な土壌などではなく、プラグマティズムに基づく「現実」と「妄想」の強引な切り分けと、それによる妄想(幻想)の弱体化と孤立化なのではないか(だからむしろ、ロマン主義が「足りてない」ということが問題ではないか)。
●ところで、芸術の(あるいは遊戯の)究極の目的は、実はあらゆる意味での排他性をキャンセルすることではないか(すべての排他性を排除してしまえばわれわれは無になるしかないのだが)。
だとすればそれは本来、唯一の正しさではなく、常に胡散臭さを指向するはずだろう。たとえば、正しい(真正な)科学に対し、時に疑似科学、トンデモ科学を指向し、それを積極的に肯定する、とか。科学と疑似科学の境界のグレーゾーンこそが最も胡散臭く、最もリアルな領域だろう。人間の精神はそのような場所こそを住処とするのでないか。だがそれは、まじめな(だけの)専門家の神経を最も逆なでする領域かもしれない。
胡散臭ければ芸術であるとは言えないかもしれないが、胡散臭く(やばく)なければ芸術ではないとは言えるんじゃないだろうか。それは勿論、科学を、科学的探究やその過程を否定するものでもないし、無視するものでもない。芸術の敵は科学でもプラグマティズムでもなくそれらを隠れ蓑に発動される「正しさ」であり、そこからくる排他性や恫喝だ。
●排他的な科学からすれば(ポパー的な基準からすれば)、精神分析は科学ではないだろう。だが精神分析のリアリティは、それが決して正統な科学たりえないところにあるのではないか(「リアリズム」とならないことでリアリティが確保される)。おそらくそこには「科学的論理」とは別種の「説得力」がある。そして、人間の精神もまた「自然」のものであるはずだとすれば、その混乱こそがもう一つの(精神の)「自然科学」があるとは言えないだろうか。
●論理も、行き着くところまで行くと、排他的であると同時に排他的でない(というか、あきらかに排他的であるのに排他性が発動しない)、という事態も発生する。たとえばドイッチュは、「対角線論法」を紹介して計算不可能な領域の存在を示した後、計算不可能という事態を次のように説明している。計算不能であるということは、それが「答え」だという証明が決して存在しないもののこと。
≪(…)答えを計算するすべのない問題は計算不能と呼ばれている。もしある問題が計算不能であっても、それはその問題に答えがない(…)、あるいは曖昧であることを意味しない。≫
≪たとえば、素数対とは、3と5、あるいは11と13のように、差が2であるような一対の素数である。こうした対が無限に存在するのか、それとも有限個しかないのか、という疑問に答えるために、数学者は虚しい努力を重ねてきた。この疑問が計算可能かどうかさえ知られていない。では、可能ではない、と仮定しよう。それはつまり、だれにも、そしてどんなコンピュータにも、有限個の素数対しか存在しないことと、それが無限に存在することのどちらも証明することはできない、ということだ。しかし、たとえそうであっても、問題は確かに答えをもっている。最大の素数対があるか、それとも無限個の素数対が存在するか、のいずれかである、とわれわれは確信をもって言える。第三の可能性はない。われわれは答えを決して知りえないかもしれないが、それにもかかわらず、答えははっきりしている。≫
●理論上では明らかに排他的だが、現実的にはその排他性が発動されることが原理的に有り得ないという、このなんとも言えない気持ち悪い感じがとてもリアルだ。内在的な超越性というのか。このリアルこそ、「正しい」に依存しない芸術の、そしてフィクションのリアルとつながるのではないか。
(そういえば確かペンローズも、計算不能で、かつ、決定論的であるということを「意識」の根拠としていた。)