●「私的規則の不可能性」(ウィトゲンシュタインクリプキ)と、その議論を前提とした上で「私秘性を考えること」(クワイン、デヴィドソン、永井均、西川アサキなど)との関係、というか相克。私が、「私は規則Aに従っている」と言えるのは、私が属する共同体がそれを認める時だけである(私が、内的にそれを証明することはできない、内的規則は行動を決定できない)。プラス/クワス問題とその解決によって導かれる私的規則の不可能性。この議論は同時に、私的言語、感覚言語にまで及ぶ。私が、「私は今、赤を見ている」と言えるのは、私が見ていると指さしたものが赤であると、私が属する共同体が認めた時だけである、ということまで導かれる。しかしその時、私の内部にある(としか思えない)「この赤の感覚」はどこにあるのか、それをどう扱い得るのか。私的規則の不可能性(私と共同体の不可分性)のなかで「私の私秘性(私の感覚)」をどこに置くのかという分析哲学的な問い。ぼくにとってこの問題は、美術における「社会的転回」と「制作(あるいは感覚)」の関係、相克、という問題とパラレルであるようにみえる。
(永井均の次に西川アサキという名前を入れてしまっているのだが、ぼくはここで、分析哲学→システム論をシームレスに繋がるかのように混同させている。それは例えば、90年代の人工知能分析哲学的であったが、それがいったん行き詰まり、現代の人工知能はシステム論的になった、ということによって一応は根拠づけられるのではないか、と思う。)
(例えば、「内部観測」とは、クリプキのプラス/クワス問題のとらえ直し・再構築という側面をもつ。複雑系、あるいはオートボイエーシスが、中枢などなくてもシステムは作動すると証明した後、その前提をふまえつつ、しかしそこにもなお「中枢」を――というか、事後的に中枢と呼ぶしかないような、階層を破ろうとする何かしらの働きを――考えざるを得ないだろうというのが内部観測ではないか。)
(この点で、「現代芸術は表象から脱して操作を提示し、操作そのものを思考しなければならない」とする――あるいは、ロマン主義を過度に忌避する――エリー・デューリングには納得しきれないところもある。操作そのものを思考しつつも、表象は不可避である――私的規則は不可能であるにもかかわらず「私秘性」は出現する、ように――という点へのアプローチが芸術なのでないかと、ぼくは思うのだが。)
●そして、おそらく同様の問題(共同性と私秘性のと絡まり合い)をまったく違うディスクールによって追求しているのが、精神分析的言説であるように思われる。しかし、分析哲学精神分析はきわめて折り合いが悪く、水と油のようですらある。
精神分析は、ラカンなどによって高度に理論化されてはいるけど、基本的には理論というより治療という目的をもつ臨床的な知であり、それは百年以上に及んで積み重ねられた臨床の厚みに支えられた、理論化できないものまで含んだ「共有された知恵」のようなものだと言えるのではないか。ある理論を作業のための仮説として採用し、共有し、練り上げてゆくことで、臨床的実践、臨床経験の共有化、および新たな臨床家の育成に、大きな助けになる、というような。知恵であり技法であるようなもの。
それに対し、分析哲学の武器は「論理」であり、あくまで論理に従い論理のみによって外側からがちがちに、リジッドにせめてゆき、その徹底性において(中途半端な実践性を排除することで)、何か驚くべき帰結を出現させる。それは実践から完璧に切り離されているが故に意味があり、そこに強みがある。
だから折り合いが悪いのも当然なのかもしれないが、しかし、無責任な素人からみれば、そこで追求されている問題は近似的であり、そのアプローチも相対的、相補的であるようにすらみえる。
(相補的であるということは、裏と表から同じことをやっているということであるけど、それは「混ぜ合わせることができない」ということでもあり、だから折り合いが悪いのは当然かもしれない。)
●そして、その折り合いの悪い二つのディスクール(言語ゲーム)はどちらも、「科学」という別のディスクールと折り合いが悪いように思う。科学者は通常、プラス/クワス問題などを、まともな問題として取り上げることはないのではないか。科学者にとっては、そんなものは「懐疑のための懐疑」に過ぎず、「世界を最も良く説明する一貫した(排他的な)体系の追求」に対して何の貢献もしない、無意味な問題と見なすだろう(例えば、ドイッチュ『世界の究極理論は存在するか』7章「正しさの根拠をめぐる対話」など)。だから、「内部観測」などと言い出すことは科学者の共同体のなかでは容易ではないだろう。
(とはいえ、論理実証主義を否定したクワイン全体論などは、科学も受け入れるのではないか。でも、この全体論は、科学者がすごく嫌うラトゥールのANNとすごく近いようにも思う。ANNから具体的なオブジェクト=アクターへの注目を差し引くと、ほぼクワイン全体論に重ならないだろうか。)
●例えば、デュシャンの作品が美術史上で配置されている位置と、デュシャンの作品を観ることでそこから読み取られる――あくまで「読み取られる」のだから、それを読み取る「わたし」の私秘性と不可分なのだけど――作品から滲み出すデュシャンの私秘性の感触とがあり――それが「ある」ことを証明することは出来ないが、「ある」としかぼくには思えない――その双方から捉えられる、共同性と私秘性とが接続し、かつ、分離してゆくような界面を観ないのならば、作品というものの一体どこを観ればいいのかぼくには分からない。
「わたし」は共同性から生み出され、内部に共同性を投射することで「わたし」を支えるのだが、同時に、共同性は「わたし」にとって最初の他者であり、共同性にとっても「わたし」は排除されるべき他者である。互いに互いを内部に(あるいは背後に)含みながら、相互に否定し合いもする。
私秘的な「感覚」に賭け、そこから共同性への開けを探ったマティスに対し、デュシャンは「私的言語(感覚言語)の不可能性」のなかで「私秘性」を探す。たからこそ、後年のデュシャンは作品を親しい友人たちの間でだけ流通させたのではないか。作品は、親しい友人たちのネットワークを前提とし、そのネットワーク上で拡散するようであるが、もう一方で、一つの箱のなかに模型化されコンパクトに仕舞われる。あるいは、作品のなかに物が封じ込められる。作品は、ネットワークを媒介するもののようでいて、むしろ遮断する傾向をもつ。開かれるものと遮断されるものとが分岐する界面に、私秘性の匂いがたちあがる。