●エリー・デューリング「プロトタイプ」(武田宙也・訳「現代思想」2015年1月号)を読んだ。とても面白かった。でも、けっこうややこしい話なので、後になってからでも、読んだことを頭のなかで再現できるようにメモを書いてみた。
(最後のデュシャンのところがちょっと弱い気もする。)


デュシャンのように、
→「芸術を作ること」ではなく「芸術家であること」という反ポイエーシス的な使命---でもなく
→この活動がときに専心するところの「できあい」のオブジェクト---でもない
というところに「さまざまな組み立てや機械などのための一つの場所」がある


○安定した形態を提示する---わけでもないにもかかわらず
→芸術的なプロジェクトに対するある「一貫性」を、
→この芸術的プロジェクトが提起する実験に対してある「可視性」を
すでにしてあたえるもの
(準-芸術的オブジェ----プロトタイプ)


ロマン主義(批判)

プロセス的な作品ではない、ロマン主義からの離脱の独自の方途
(なぜわれわれは、いまだにロマン主義者なのか)


ロマン主義批判の三つの対象
(1)病や衰退的な生の体制などの、ある種の情動の体制
度外れの形態、超過への、消費への情熱
(2)ロマン主義通俗的な意味
自我の、身体の力の高揚
オーバーレブ状態で作動する、能力の最大の緊張としての「崇高」への嗜好
(3)カオスや無限への無媒介的な関係
→「天才」対立物の一致(能動性と受動性、形態を組織する意識と、表現力豊かな無意識)→近代性の慣例的常套句。


芸術が「理念」との間に保持する関係
→理念--芸術を知的な気晴らしや娯楽、あるいは公共サービスと「別物」にするもの。有限と無限との関係を決定するもの。
有限な、識別可能な芸術→「理念」←カオス・無限・安定的な意味作用の無効化


ロマン主義の二つのヴァージョン
(1)メジャーな(公式な)ロマン主義
→作品という有限の形態への「無限」の降下(受肉) 崇高の美学
有限と無限との間の非-関係としての離接的な関係(痕跡、断片、反映、プロセス)
(2)マイナーな(唯物論的な)ロマン主義
受肉の図式からパフォーマティブな図式へ
切り取りの、設置の「行為そのもの」、形態を創設する「身振りそのもの」の提示(作品は、生成のプロセスの背後で姿を消し、ある「活動のしるし」を組織することとなる)
作品なき芸術家、純粋な身振りのマニエリスム(芸術家という主体の、能動的、あるいは苦悩する身体が、有限な「作品」を凌駕する無限となる)


現代的な作例
(1)プロセスの明示的、暗黙的な援用(「作品」は、いくつもありえる可能な表現のうちの一つ)
(2)パフォーマンス、プロトコル、手続き、行為といったものの増加---ゲーム、舞台、資料、契約、活動報告など゛(芸術家が生に形を与える)
(フルクサス「芸術とは生である」逆転「生とは芸術である」)
○プロセス的体制とパフォーマンス的体制との間のゆらぎ→ロマン主義の二つの条件の「効果的な矛盾」


プロトタイプ

○オブジェとプロジェクトの間にまたがる形態(オブジェの論理とプロジェクトの論理を組み合わせる形態)→プロトタイプ
新たな生産体制(プロセスという発想なしで、あるいはそれを過大に扱うことなしで、オブジェの論理とプロジェクトの論理を結びつける)。


「理念的」かつ「実験的」なオブジェ
○理念的---予期、プロジェクトの体制に属し、実現されることを求め、適切な規定を完遂させられれば、作品を生み出すことになる。
○実験的---すでにプロジェクト以上のものである。いまだ安定化されていない、経験というテストを受ける運命にあるオブジェ。


絶えず変化しつづける開かれたプロセス→を、「切断」するもの=プロトタイプ
→「中断すること」。作るべき作品の「モデル」となるオブジェや装置をつくることで、プロジェクトに「一貫性」「可読性」を与える。
→「作品」は、必ずしも実現されるとは限らないし、実現しても機能するとは限らない(オブジェの理念は偶然性の次元において与えられるから、失敗は常にありえる)。
→「理念的なオブジェ」---完全、決定的、という意味ではない。予期的なオブジェ=「最初の現実的なモデル」
→物理学者や経済学者が使う意味での「モデル」---あるもののコピーというより、その「代わりとなるもの」、あるものを単純化し、再構築するもの---それは、作品の「最初の実現」であり、その代弁である。


デュシャンの「コーヒーミル」
→把手が描く円周の複数の位置の同時的な眺めを通じて、諸運動のダイアグラムのようなものを提示する---プロトタイプ---デュシャンの機械類の着想、およぞ実現のさまざまな段階にあるあらゆるものは、「大ガラス」と同様にプロトタイプである。
→作品実現のための、生成の各段階において現前するもの(生成の構成要素)=プロトタイプ


プロトタイプの価値=「生産のジャンル」ではなく、「芸術的活動」が、(プロジェクトや、生産の段階に応じて)「自らを表現する仕方」に向けて投げかける「光」にある。
→ゆえに、オブジェの分野(タイプ?)ではなく、精神のタイプの区別をみる必要がある。


【プロトタイプをつくる精神の四つのタイプ】

1.企業家


中小企業の経営者としての芸術家→芸術を多様な活動領域へと拡大させる(芸術生産会社)
→オブジェクト---作品というより、活動の誘発子。


ファブリス・イベール「機能状態にあるオブジェのプロトタイプ(POF)」
→見た目(実利的オブジェクト)しかし、機能(抽象的・不明瞭)


潜在的なパフォーマンス」「行為のための小道具(アクセサリー)=オブジェ」---機能のプロトタイプ→目的の不確定性(オブジェの開かれ)
たとえば、「四角いサッカーボール」→コンセプチュアルな冗談やシュルレアリスム的な奇想ではない→実際にチームがつくられ、トーナメントを組織する連盟が現れ……
→日常生活における流通に介入し、位置をずらし、構成を再編する


(普及、展示、そしてマーケットでの交換価値よりも)「生産」を芸術活動の中心とする→すると、(マーケットでの交換価値ではなく)使用価値の復権(→社会的関係の再編成)に結びつく。
→「関係性の美学」へちかづく(経済的、政治的、社会的プロセスの能動的な仲介者としての芸術家)→密かにロマン主義的 ?


2.エンジニア


パナマレンコ→アレゴリカルであると同時にリテラルである。


「わたしたちは、飛行機を毎日再発明することができます」→現在の「飛行機」は、まだそれなりにプロトタイプだといえる→さまざまな機能不全やクラッシュ


パナマレンコのプロジェクトは、「それが実行される前にすでに機能するような理念ではない」
→たとえばボイス「蜂蜜ポンプ」は、実現するより前に、すでに理念として作動している。(それを思いついた段階ですでに完結している)
(思弁的なオブジェクトからなる抵抗のない環境では、可能な作品の理念は---プロセスの美学、関係性の美学などにより好意的に演出されつつ---つねに上手くゆく)
→対してパナマレンコの「飛行機」は、それが「飛ばないことができる」ように、実際に作られなければならない(→「飛ぶことができないように」ではない)


背負い式ヘリコプターは、「人を空に連れて行く」ことはないが、「(それに理念を与えるところの)モータープロペラを回転させる」ことができることが重用→「失敗」が、創造プロセスの構成的な次元である


→まったく機能しないことがある
→うまく機能しすぎる可能性もある
(そのことが、プロトタイプを一つの実証--デモンストレーション--の方法としている)
→それはわれわれを、好機と実行可能性の研究、素材の抵抗テスト、技術管理などへ差し向ける→組み立てられさえすれば、成功や失敗はどうでもいい
→「もしオブジェが機能すれば奇跡ですが、機能しなければいっそう完璧でししょう」


3.オペレーター


芸術家が見させるもの
→実行中の手続き
→実行のうちに捕らわれた「理念」


諸理念のオペレーターとしての芸術家


ソル・ルウィット
○チェッカーボードに並ぶ五つの白いキューブ、を2つ並べる作品
キューブが形を構成→一つは階段のモチーフ、一つは対角線
◎もし、一つのチェッカーボードのみが示されたなら
モダニズムアーキタイプミニマリズムのイコン 無数の組み合わせ可能性があることの提示(暗示)
◎もし、可能な組み合わせのすべてが示されていたとすると
→(パフォーマンスとして)セリーを尽くしたこと(全体性を示す)になる
◇しかし、そのどちらでもなく、二つの可能な組み合わせを並べて置いた。
→前景化されるのは差異、駒の移動、再構成であり、つまりある配置から別の配置への操作(オペレーション)だけである。
→それは、一連の同種の操作を「開始するもの(始動させるもの)」である。
→そして、その操作を全体性において表現する必要がないまま行われる。
(操作の「展開」を不可避的に示唆するとしても、それは、一般規則の「多くの」「ローカルな実行」だとわからせる。)
→行為、幾何学的パフォーマンス、を、「モデル化」する。


コンセプチュアルアート---《「作品」となるものは、それを「作ること」であり、「作られたもの」ではない》 芸術作品の脱物質化、しかし…


「理念は芸術を作る機械になるのだ」ルウィット
→要点は「理念」ではなく「機械」にある---プログラマーであるよりも、オペレーターである。
「規則(プログラム、インストラクション、アルゴリズム)」の「機械的」「盲目的」な適用、基本モチーフの規則的変形を通じた「実行」を、「物質的」に提示すること。
→構成プロセスにおいて「偶然」のイニシアチブを禁じ、構造の直接的な知覚的把握を妨げる
→「理念」は「美的主体」への批判
→「理念」が対立するのは、「オブジェ」「客観的現実」ではなく、「主体」「主体性」(恣意やきまぐれ)である。


「理念」---作品を機能させる「直感」や「心的プロセス」を、《作品そのもの》よりも、よりよく表す。
→故に、「生産物」よりも「理念」が重用なのであり、「非物質性」が重用なのではない。
(「実行の方法の詳細」が感覚可能になるだけで十分であっただろう)


「理念」には、「一般的なところ」も、「理念的なところ」さえ、ない。
理念=「作品化のプロセスを方向付ける、正確さ、厳密さの原理」
(「理念」は、理論的なところのない、直感的な芸術に固有のものだ)!!


「理念」と「概念」の区別
概念→一般的な方向性
理念→「概念」の構成要素---「理念とは、概念を実行するものなのだ」
○有限の作品←理念「楔として」→概念
→理念(機械・装置)=プロトタイプ


コンセプチュアルアート的なプロトタイプ(インストラクション、メモ、インスタレーションの図式、装置など)は、「理念的」であっても「抽象的」ではない---それは常に、実行や実現の規則を具体的に提示する。
→プロトタイプは、「作品」が「実現可能」であることを「実証する」だけである。


コンセプチュアル的なプロトタイプは、
(1)開かれた作品、可能的なものの共存、提案だけで実現が免除される作品(プロセス的作品)ではなく、
(2)実現(パフォーマンス)によってすべてが尽くされる(可能性のすべてが示される)作品でもなく
→「可能的なもの」「概念」「行為」のいずれにも属さない


プロトタイプの論理は、《理念に、「一貫性」「可視性」を与えるプロジェクトであり、そこで理念は、それ自体がプロジェクトを実行する力となる。》→理念は、声高に叫ばれるのではなく、「実行の力」としてある


だが、コンセプチュアルアートが、必ずしも常にそいうものだったとは限らない
→(1)「理念」がプロジェクトによって「演出される」という逆転によって、(字義通りに)実現する力を失い、潜在的「定式」のようになものなってしまうこともある(→ローレンス・ウィナー「ナイアガラの滝のアメリカ滝に投げ込まれたゴムボール」---規則の言表はフェッティッシュとなり、理念はもはや作動しない)
→(2)プロジェクト=作品化の空間である→自己(プロジェクト)を破壊する、ことなく作品の代わりとなることはできない
(プロジェクトをもたないもの---例えば、グリーンボックスのないレディメイドは、たんなる警句、軽薄な提案でしかない→プロジェクトや理念をもたないものは、ただ「働かせる」だけのもの---プラン、動作、戦術、戦略はあっても、それはプロトタイプとは別のもの)→プロトタイプはたんなる警句や蔵言ではない


プロトタイプ→(1)実行の手続き、実効的な要求であり、(2)適用や作品化の次元がほかに存在することが必要で、(3)それ自体が美的関心の対象となる(理念=手続きの「触知可能な面」)


4.研究者

自らのアトリエ、生そのものを「実験室」に変える芸術家
→シュビッタース、フィリウ、デュシャン


プロトタイプは、思考や仕事の空間のあらゆる種類に適応されると、その効力を失ってしまう可能性がある。


「大ガラス」


(もはやそれは、作品の提案ではないし、オブジェ、パフォーマンスの可能性をプロジェクトするものでもない)
→ある仮定として機能し(「〜が与えられたとせよ…」)、構築や組み立てのための空間、創造的な活動がそれ固有の持続へと集中するための場---四次元の探求(運動のあらゆる自然主義的な形態に敵対する、空間=時間のようななにものか)
→しかし、「大ガラス]から,その経験の報告や失敗を「読み取る」ことは可能か


第一段階(類比的段階)---三次元を二次元に投射するように、四次元を三次元に投射することを考える(四次元→処女の花嫁と独身者たちのピストンエンジンのエロティックな駆け引きの真の舞台)
→習慣的なアナロジーではないやり方で、複数の次元が互いに関連しあう仕方を把握する探求
○習慣的なアナロジー=(三次元における四次元の潜在性=二次元におけるボリュームの潜在的表現)
→しかし当初のデュシャンはこの習慣的アナロジーの段階にとどまっている(通常の三次元的なボリュームを、いかにして四次元的ハイパーボリュームとして提示するのかという問題に捕らわれている)


飛躍--切断の方法(「ホワイトボックス」のメモ)→ポワンカレによる次元の解析的定義(n次元の位置はn個の座標によって得られる)より。
○n次元の連続を、一回あるいは複数回切断することで複数の部分に分解できるとする。
○この切断は、それ自体、n−1次元の連続である。
○こうして、n次元の連続は、n−1次元の連続によって定義できる。
(ポワンカレ)
→ある空間(n次元)を「それ自体」から分離する可能性,
→空間を非結合的なものにする可能性
◎アナロジーや俯瞰的把握ではなく、n次元の連続のまっただ中から把握する可能性
→直感的な把握、というより、切断という「操作」そのものとして…
《われわれは、すでに四次元のなかにいて、それを絶えず切断しているのだ》


→しかし、いかにしてそれを「見せる」ことができるのか。
移動式遊園地、レピーヌ・コンクール、新たな幾何学的構造……(網膜的絵画、キュビズムに抗するさまざまな探求)
→数年におよぶ探求の結果としての「大ガラス」をどう考えるか。
(「大ガラス」を眺めた時に当然抱きうる「失望」…)


「大ガラス」を見て、それが具体的にはどのような形で(デュシャンポアンカレから見いだした)「切断」の理念を作品化しているのかを言うことは難しい。
→しかし、プロジェクトのハイブリッドな性格を徹底的に引き受けることによって、ある「袋小路」の諸項を見事に配置している、とは言える。
(グリーンボックスと「大ガラス」は、どちらか一方だけでなく、相互に参照されるものだ、とディシャンは言う、「二つの事物の結合は、私の好まぬ網膜的な側面をすっかり消し去るものでした」)
→「大ガラス」は(あらゆるプロトタイプとと同様)、もっとも「触知可能な仕方」で「不可能の証拠」を示すことができている、と言うことはできる(触知可能な不可能の根拠…)。