●多分クリスマスくらいの時期になりますが、勁草書房から本が出ます。現在、再校校閲中。
https://twitter.com/keisoshobo/status/1059266497359433728
●たとえば、ぼくが「たんに趣味として」何かを好むとする。そしてその好みに対して、個人としての趣味以上の必然性や正当性を主張するつもりはないものだとする。あるいは、そのときの気分によって、特に理由や考えもなく、なんとなくAよりもBを選択したとする。そこにあるのは、とるにたらない、ぼくという個人によって生じた好みや気まぐれにすぎないと言える。それはこの世界に無数に生じるちょっとした誤差やノイズの範囲内の出来事でしかない。しかしそれでも、そこには、たんに個人としての好みや気まぐれを超えた(それには還元できない)、ごく希薄な必然性が、この世界のなかで発生しているとも考えることができる。何かを好み、なにかしらの気まぐれを発生されているのは、たんにぼく個人であるだけでなく、この世界に潜在する匿名的なパースペクティブであり、そのようなパースペクティブが、たまたま「ぼくにおいて現れた」と考えることもできる。
●もう少し強い例を考える。たとえば、ぼくにとってはデュシャンよりもボナールの方が美術史においてずっと重要な存在だ。しかしそれは、あくまでも「ぼくにとって」であり、ぼくには、「デュシャンよりもボナールの方が重要である」という美術史の物語(言説)を作り上げ、それを現状の一般的な美術史的言説に対抗させ、できれば優位に置かれるように状況に社会をかえていきたい(他者を説得してまわりたい・政治的言語ゲームに参加したい)などという気持ちはまったくない。
ここでの「ぼくにとって」は、たんにぼく個人の趣味の問題ということで収まらない。そこには趣味や気まぐれと言って済ませられるよりはずっと強い、この世界のなかでの必然性があり、感覚の強さがあり、そうと言い切れるだけの確信がある。そこには、あるパースペクティブをとることによって検証可能な歴史的必然性のようなものがあると思える手応えがある。「デュシャンよりもボナールの方が重要である」というパースペクティブは、ぼくのなかにあるのではなく、もっと大きな拡散性と持続性をもってこの世界に存在し、ぼくという個人はその一端に触れているだけである。「わたしにとってデュシャンよりもボナールの方が重要である」という「わたし」は、もちろんぼくだけではない。
しかしそれでも、ここでは「ぼくにとっては」という限定が重要である。
「ボナールよりもデュシャンの方が重要である」という美術史と、「デュシャンよりもボナールの方が重要である」という美術史は排他的ではない。いや、ここでどちらをも「美術史」と言ってしまうと文化相対主義みたいになるから言い換えるべきか。結果として「ボナールよりもデュシャンの方が重要である」という結論をもたらすパースペクティブによって編成されるこの世界の現実と、結果として「デュシャンよりもボナールの方が重要である」という結論をもたらすパースペクティブによって編成されるこの世界の現実とは異なっているけど、それはこの世界において排他的ではない。
だがそれでも、世界のなかに現れる限定的なパースペクティブ(ぼくにとって)において、それはどうしても「デュシャンよりもボナールの方が重要である」という形であらわれる。もちろんそれは、「デュシャンは重要ではない」ということを意味しない。「ぼくにとって」も、デュシャンは十分に面白い。そしてそれは、「ボナールよりもデュシャンの方が重要である」というパースペクティブを否定しない(しかし、そのようなパースペクティブによって編成される「現実」に参加することは難しくなる)。とはいえ、そのようなパースペクティブを分析したり模倣したりすることで、別のパースペクティブを自らの内側に織り込もうとすることもできる。
だからそのうち、「ぼくにとってはボナールよりもデュシャンの方が重要である」などと言い出すかもしれない。そのときぼくは、別のパースペクティブに移動していて、「デュシャンよりもボナールの方が重要である」と言っていたときのパースペクティブ(と、現実)を失っている。
●趣味や好み、気まぐれといったものは、ふつうに考えるよりも閉じられたものではなく、かつ、恣意的というよりも運命的(必然的)なものであるように思われる。