●最近、ぼくにとって「美」というものがとても重要なのだと改めて感じている。美が重要だというのは、それ自体が目的である(美のための美、芸術のための芸術)ということではなくて、美は、美以外のなにかには還元できないということが重要なのではないかと思う。
美がなくても人は生きていけるし、美があったとしても特になにか役に立つわけではない。しかし、それでも、どうしようもなく美というものはある。美があるということを無視することはできない。だからといって美に取り憑かれるわけではない(取り憑かれてしまえば、それは美ではなくフェティッシュか対象aのようなものになる)。ただ、そこに石があるように、そこに美がある。おそらく、美がそれ以外のなにかに還元できないということは、そういうことだと思う。
たとえば、ボナールを観ていると、言葉というものが意味を失うのを感じる。それは、圧倒的に美しいから言葉を失うということではない。ボナールの絵について、その魅力について、語ろうと思えばいくらでも語れるだろう。でも、それを語ることになんの意味があるのだろうか、という気持ちにさせるのがボナールだ。ただ観る以外のことに意味があるとは思えなくなってしまう。だから、言葉を失うのではなく、言葉が意味(意義)を失う。
(すべてのボナールがそうであるのではなく、うまくいったボナールのみがそうであるのだが。)
マネやセザンヌやマティスもそうなのかと言えば、それは少し違う。マネやセザンヌやマティスの作品について、語り尽くすことはできないとしても、なんらかの方法で食らいつき、様々な方向から迫るために、それについて語ることに意味がないとは思えない。むしろ、彼らの作品は積極的に「言葉」を誘発するようにさえできている。美は探求を要求し、その探求において言葉は重要な意味をもつ。とはいえ、その探求の言葉は美そのものではない。
美という言葉は適当ではないというか、誤解を与えるものかもしれない。美と言うより、ありふれたものとは異なった「奇妙さをもつ質」とでも言った方がいいのかもしれない。奇妙さというのは、たんに珍奇であるということではなく、周囲のものたちとは異次元のような感触をもつ質、異次元の断片が露出しているような質、と言えばいいのか。あるいは、感覚のメタレベルがそこにある、という感じ。自分自身の形によって、その形が正解であることを証しているかのようにみえる形、と言えばいいのか(この言い方はモダニズム的過ぎるかも)。
美の奇妙さは、普通さや常識に対して奇妙なのではなく、それ自身の本質として奇妙であるということだ。
それは、人を幸せにするわけではなく、魅了するのですらないのかもしれない。美は快楽よりも少し冷淡だ。だが、それは面白く、興味をひかれるので、快楽に浸っていたくても、いつの間にかそっちが気になって、無視できなくなる。そして結果として、そっちの方に巻き込まれている自分を発見することになる。