●必要があって、セザンヌマティスの画集や画像をいろいろ観ているのだが、やはり飛びぬけて面白い。なんとかして、セザンヌマティスを近代絵画(モダニズム)や二十世紀という枠組み(文脈の縛り)から解き放って、来たるべきものとして捉え直せないだろうか。
(それには、セザンヌマティスを、モダンのマスターピースであることを前提として「研究する」というやり方では駄目だろう。)
(「絵画」としての好き嫌いというか、愛着の深さでいうと、セザンヌマティスよりもボナールの方が強く好きであるのだし、「近代絵画」という問題に限ればマネが面白いと思うのだけど、セザンヌマティスは、近代とも絵画とも関係のない、まったく別の文脈から観直しても、未だ「来たるべきもの」として耐え得る要素が備わっているように思われる。)
そのためには、セザンヌマティスを、「絵画」という文脈からいったん引き離して考える必要もあるのかもしれない。「絵画」としては、ボナールやマネよりもずっと粗野なのだと考えてみる。あるいは、もっと粗野に扱う、と。
●たとえば、今や、機械学習によって、テキスト(自然言語)から、ある程度ちゃんとした画像が自動生成できるらしい(西川さんからの受け売り)。そのようにして生成される画像と、セザンヌマティスはどの程度同じで、どの程度違っているのかだろうか、とか。下の画像は「Image Generation from Scene Graphs」(Justin Johnson, Agrim Gupta, Li Fei-Fei /Stanford University Google Cloud AI)より。


https://arxiv.org/abs/1804.01622