横浜美術館セザンヌ主義展。セザンヌのした最も大きな「発明」は、おそらく、画面のすべての場所が絵具で埋められなくてもよいのだ、ということに気づいたことだと思う。このことの、もの凄く大きな意味を、セザンヌに影響を受けたとされる画家のほとんどは気づいていない。というか、このことの意味の大きさは、今でも完全に汲み尽くされてはいない(マティスはおそらく、このことの意味のある特定の方向のみを、大きく押し進めた)。勿論これは、ある日突然発見されたものではなく、セザンヌの探求のなかで必然的にそこに行き着いたことだ。印象派(とクールベ)は、油絵の具の使い方というか、油絵の構築の仕方を徹底して変えてしまった。変えたというより、破壊したのだが。そのことによって、絵画における、キャンバスと油絵の具という物質のもつ意味をかえた。しかしそれでもなお、印象派ですら、画面の全てを律儀に絵具で埋めている。だがセザンヌは、全ての部分を絵具で塗り込めなくてもよいことに気づいた(というより、「そこ」は塗ってはいけないのだ、そこを塗ったら台無しになってしまう、と気づき、「塗らないまま残す」ことを強いられた、ということだろう)。エスキースやデッサンや水彩では誰でもが当然のようにやっていることを、キャンバスと油絵の具でやってしまうことで、その意味が大きくかわった。セザンヌ自身でさえ、水彩による作品では、紙の白は「明るさ」として使われていることが多い。しかしタブローでは、キャンバスの白さは「明るさ」とはまったく関係のない、露呈した(目に見える)盲点のようなものとして機能している。
あと、セザンヌを観て思うのは、へんな言い方だが、そこで保持されているもの、持ちこたえられているものの質量が圧倒的に大きい、という感じだ。それは、もの凄く「遠く」を見ている、ということでもあるが。(セザンヌピカソも、前もっての「全体」のヴィジョンがなく、画面のどこか一部分から描きはじめて、それが徐々に増殖してゆくように描きすすめたという点では同じだと思われるけど、その描き進めている間に「持ちこたえられているもの」の質量が圧倒的に違う。)屋外へ出かけ、風景を目の前に(というか、風景のなかで)制作することをはじめたのも印象派だが、セザンヌはこのことの意味も大きく変えた。こう考えると、セザンヌ印象派なしにはあり得なかったことは事実だと思われる。しかし、前提としては印象派が必要だが、やっていることは印象派とはまったくことなる。モネのことを、「素晴らしい眼だが、眼でしかない」と言ったその意味は、そこ(セザンヌの絵)で保持されているものの質量の大きさを感じることによってはじめて理解されるように思われる。セザンヌにとって、自分が描いているものが「絵画」であることさえ、おそらく大した問題ではなかった。セザンヌを動かしているのは、絵画よりも前にあるもっと強い何かで、だからこそ、絵画としての完成度など無視して、画面にいくつものブランクがあるままであることを積極的に受け入れることが出来たのだと思われる。
白樺美術館から大原美術館へと永久委託されたと書かれていた、1885-87年に描かれたとされる「風景」の作品は、この展覧会ではじめて観たのだが、とても強い印象を受けた。