新国立美術館ピカソ展で感じた、ピカソの絵の「決まってなさ」というか、「無理している感じ」というのはどこから来ているのだろうか。ピカソにとって、描きたい対象とそれ以外の背景との分離というのは、おそらく生涯付きまとった大きな問題だったのではないだろうか。キュビズムピカソにとって、セザンヌのように、対象と背景とを分けることなく、一体になったものとしての「空間」を捉えるための試みだったはずなのだが、しかしピカソにとってはあくまで、興味のある対象と、その対象を浮かび上がらせるための背景とは、別のものだという感じがありつづけたのではないだろうか。女の顔を描くためには、その女の顔が存在している空間全体を描く必要があるのだが、「女の顔のある空間」を絵画として構築しようとしているうちに、最初に描きたかった「女の顔」の感じが、どっかへいっちゃうじゃないか、という感じがピカソにはあったのではないだろうか。しかしピカソは、ある程度は「絵画」に律儀に囚われてもいるから、例えばジャコメッティの描く絵みたいに、興味のある部分だけしつこく描き込んで、それ以外の部分はほったらかしておく、といようなことは出来なかった(本当は、それでも充分に、というか、それだからこそより強く、絵として成り立つのだし、それだからこそ、空間と対象とを同時に捉えることが出来るのだが)。キャンバスの上に女の顔を描くと、それ以外の部分が余ってしまうから、そこにも何か適当な処理をしておかなくちゃ(何か適当な色でも塗っとかなくちゃ)いけない。ピカソがこんな意識で絵を描いていただなどと言えば、それはいくらなんでもピカソをバカにし過ぎなのだが、でも、そこはピカソだから「背景の処理」はとても高度なものであるとはいえ、どこかでそういう感じがずっとあったように、ぼくには感じられた(全ての作品がそうだということでは勿論ないが、「そういう感じがずっとあった」ということ)。
彫刻ならば、その彫刻を成り立たせる背景は、無限定な現実的な空間であるから、それは可塑的であろう。小ちゃい彫刻をつくろうとして、制作の過程でそれがどんどん大きくなってしまっても、大きな彫刻がどんどん小さくなってしまっても、別に問題はないのだが、絵を描く場合、キャンバスのサイズはあらかじめ決まっている。ジャコメッティがそうしたように、そんなの無視して、描きたいところだけを描いてやめちゃってもいいのだが、ピカソジャコメッティよりもずっと「絵画」に対して律儀であり、ということはつまり、その律儀さを破るほどの「確信」の強さは、ピカソにはなかったということでもあるのかもしれない。優れた空間把握力によって、これ以外にないという程「決まった」かたちをしているピカソの立体作品と、どこか「決まり」切っていなくて、そのために、ダイナミックな動きと多産性を獲得した(しかしそれらは、常に満足を宙吊りにしたままである、つまり「確信」が持てないままであるようにも思われる)絵画作品との印象の違いは、このようなところからくるのかもしれない。