●芸能人がテレビで、地方のホテルに泊まった時などに見た幽霊の話をする時にしばしば、親指くらいの小さな幽霊の話が出てくる。ぼくはこの幽霊の小ささに、不思議なリアリティを感じてひっかかっている。ちょっと前に、ジャコメッティの展覧会に展示されていた異様に小さい人物像を観た時、ぼくはこの小さな幽霊のことを思い出していた。ジャコメッティの作品は、まさにジャコメッティの固有な病理が表現されているような作品で、ジャコメッティの作品の強さやリアリティは、ジャコメッティの病理が本物であること(つまり、それ固有の密度のあるメカニズムが存在していること)、そしてその自らの病理のみを根拠として作品が作られていることからきていると、ぼくには思われた。(ジャコメッティが「見えるものを見えるままに」つくる、と言うのは、いわゆる客観的な空間の秩序に従ってつくるのではなく、自分自身の病理の秩序に従ってつくる、ということだと思う。)そして、「幽霊」とはおそらく、人が他者の身体を見たり、その感触を感じたりする時に、それを受け取るための感覚やイメージの「原基」のようなものが、その実体のないところに溢れ出てきてしまったということなのだと思う。ぼくのこのような考えがそれ程的外れでないとしたら、他者の身体イメージの、このスケールの異様な小ささは、どういうことなのだろうか。つまり、ジャコメッティのような特異な芸術家というわけではない、ごく普通の芸能人もまた、ジャコメッティと同様の感覚=リアリティを、幽霊というやや通俗的な形象を通じて表現しているということだとすれば、そしてその話をテレビを通じて聞いたぼくもまた、どこか引っかかるようなリアリティをそこから感じたとしたら、この妙なサイズの「小ささ」のリアリティとは、一体どこからくるのだろうか。
(例えば、一昨日観た『カサノバ』にも出て来る、小人や大女のような奇形的な形象は、我々が普段もっている通常のスケール感のちょっとした揺らぎのようなものによって、その「表現性」が生じているのだろうが、そしてその表現性は類型化されたものでしかないのだが、親指くらいのサイズの人体から感じられる感触は、それとは異なっている。)
こんなことを考えたのも、クロソウスキーからで、クロソウスキーのあのよくわからない、紋切り型のポルノグラフィーの、さらに出来底ないみたいな絵は、どれもほぼ等身大で描かれているらしい(「らしい」というのは実物を観たことがないのだが)、ということからだ。絵画において、イメージが等身大であるということは、それもまた、逆にかなり異様なことのように感じられる。通常、絵画のなかの人物や事物のサイズは、その絵画作品全体の作り出す空間(つまりフレーム内の空間)のスケールのなかで決定される。等身大であるということは、現実的な空間と絵画内部の空間との境目が曖昧になる、つまりフレームの存在が弱くなるということだろう。(これは基本的に彫刻でもかわらない。実際の人間より小さな人体彫刻、あるいは大きい人体彫刻などいくらでもあるにもかかわらず、それが小人や巨人の像に見えないのは、その彫刻作品全体のつくりだす空間の尺度が現実空間のそれとは縮尺が違っていて、つまり彫刻にもフレームがあって、それが「その像の大きさ」を通常の人間のサイズにみせるからだ。だから人が彫刻を観る時、その実際の大きさと、フレーム内で成立しているヴァーチャルな大きさの両方を同時に観ていることになる。でもこれにも限度があって、例えば大仏なんかはどうしたって巨人にしか見えない。もっとも仏は人ではないからサイズはないのだろうが。)
●以下の引用は、アラン・ジュフロワとの対話におけるクロソウスキーの言葉。
《ことばはみんなのものですが、イメージはそうじゃない! 話している人の中にはじぶんが喋っていることのイメージを持っていない人がいます。ところでイメージ、これはみんなのものではないのですが、みんなを捉える---べつに議論はいらない。イメージは受け取るかあるいはそのままにしておくもの.....よくご存知でしょう。》