クロソウスキーとさんま御殿

●引用、メモ。クロソフスキー「バルチュスの絵画における「活人画」について」(「ユリイカ」94年7月号)から。
《非=言語によって成り立っている芸術について語ろうとすることは、何やらパラドクサルなところがある。実際、眼差しを通して思考に伝えられるものを、どうやって言語という様式に同化させればよいのだろうか? またそのような場合、見られると同時に理解されるイメージの中で、思考と言葉とを如何にして分つことができるだろうか? あるいは、イメージは見られると同時には理解されないのかもしれないし、そもそも、理解されたあとにも、それはまだイメージなのだろうか? 》
《非=論述的な表現様態であるタブローは、忘却に抗うものである言葉と重なり合うのではなく、言葉を消し去ってしまう。しかし、言葉がまた、特定の事柄を作動させるために他の多くの事柄を忘却のなかへと送り込むのに反して、イメージの内容は忘れられた存在そのものであって、物事を食いつくし、遠ざける時間というものをイメージは知らない。即ち、イメージの中には、過ぎ去った存在が偏在し続けるのである。絵画の遠近法が、遠くにある物体を近くの物体同様に重視するのもそのためである。「前景」も「背景」も、同じ平面上に分たれた部分であることに変わりはない。物理的空間の模像(シミュラークル)である描かれた空間は、物理的空間のなかでは消滅してしまった生きられた空間を再構成するものでありる。この模像は、過ぎ去った生きられたものを、物理的空間のなかに他の物体と共に現前する一物体(オブジェ)、即ちタブローという形で再構成し、展開する力を持っている。物体としてのタブローは、その枠組みと広がりによって、自らが物体組み込まれている周囲の世界から区切られている。けれども、模像としてのタブローは、たまたまそれを取り巻いている他の諸物体の自明性を脅かすのである。私が眼を閉じるとき、様々な用途を持ったこれら物体のひとつひとつが私にとっては様々な言葉に等しい。言い換えれば、私が自分の部屋の外にいて、なおかつ部屋のイメージを持ち続けている場合、このイメージは、私の中で語る私の思考と切り離すことができない。》
《(...)幾層にも絵の具を塗り重ねることによって描くべきマチエールを支えることを教えている古い手仕事(メチエ)の法則に従って、バルチュスは絵を描く。そしてそれによって、絵画にとっては書かれた言語における統辞法にも等しい、職人仕事のテクニックを自らに課すのである。バルチュスにおいては、こうした手仕事によって課される規律は、個性の直接的な昂揚の正反対に位置するものだ。こう言うと紋切り型になるが、本当の画家が自然の前に立ったときに実際にやっているのは、既に見たことのある特定の視覚像を探すことに他ならない。画家は外界と接することで、一つの内的なイメージを想起する。この内的イメージは、集合的で先祖伝来のものだが、学識を積み上げる過程で意識的なものになる。この意味で、かつての名匠たちは、彼等自身の企てを出発点として開かれる様々な経験の領域を表現しているのである。精神によって捉えられたこれら諸現実は、彼等のおかげで、その存在論的価値において姿を表すのだ。バルチュスにあっては、あらゆる絵画的感動は、ある権威に差し向けられる。この権威が、精神に対して感動を正当化するだけでなく、感動の新しい表現をも正当化するのである。このような正当化は、芸術家によって、と同時に、鑑賞する人々によっても理解される、ある教養を前提としている。それは、バルチュスを「美術館的」と考える人たちの短絡的な見方から言われてきたような、典拠の単なる並列によってできた作品ということではない。それはつまり、芸術家が、例えば「クールベにはこれこれのことを学んだ、だから、それを描かなければならない」と言ったりするような、素朴な考えでは全くなく、これこれの物を描くには、クールベが必要だったのだ、という意味なのである。言い換えれば、漠とした感受性から生まれる諸々のイメージが、はっきりとその姿を現すためにクールベを利用したということだ。重要なのはひとりの芸術家と過去の巨匠との親近性ではなくて、芸術家のなかにありながら、芸術家を凌駕している、いまだ組み尽くされることのない経験というものなのだ。》
《バルチュスにおいては、伝統的な絵画技法による拘束が、彼自身の情動に対して検閲を及ぼす----ところが、ちょうど「古典作家」の場合と同じように、このことが逆に情動に見方することになるのである。》
●上記の引用とはまったく関係がないのだけど、今日、ほぼ二年ぶりくらいに「踊るさんま御殿」を観て相当に笑っていて思ったのだけど、「笑う」ということと、「面白い」ということは、簡単に分離する。この番組を観ている時の状態とは、徐々に身体が「笑う」感じに暖められてきて、そしてある時、ひとつの「笑い」がおさまらないうちに次の「笑い」が押し寄せると、その暖められた身体に「笑い」の波動が重なって増幅し、その増幅した波に次の「笑い」が誘い込まれると、もう、「笑い」は、面白いから笑うという因果関係から外れだして自己目的化し、「笑う」という身体的な状態そのものが次の「笑い」を生むようになってくる。もう、「笑う」という状態の身体的快楽を身体が求めているから身体が勝手に「笑う」のであって、画面で起きていることはそのちょっとしたきっかけに過ぎないものとなっている。だから、コマーシャルの挿入などで熱が冷めてしまったり、あるいはぼくの身体が「笑う」ことに疲れてしまったりした後は、テレビの向こうでどんなに面白いことが展開されていたとしても、妙に白けた感情しか持てなくなるということにもなる。(20時40分過ぎに、ぼくはそういう状態になった。一時間もたないのはさんまの技巧のせいではなく、ぼくの年齢-体力のせいなのだろう。)ここで「笑う」ことはほとんど、カラオケで歌うとか踊ることなどと同質の経験であるように思った。この番組の明石家さんまは、笑いの質や方向性、趣味や意味などにはあまり頓着せず(つまり特別に「面白い」必要などないのだ)、ただ、この笑いの波状状態をどうやってつくり、それをどう維持するのかのみに気を使っているように思えた。(だからこそ、なるべく多様なパスを出す可能性を確保するために、多様なゲストが必要とされる。たとえそのうちの何人かが必ず死に駒になってしまうとしても。)