ジャコメッティを観てしまったということの衝撃が、

ジャコメッティを観てしまったということの衝撃が、ジワジワ効いてきている。自分が作品をつくること、あるいは、自分がいままで「良い」と思っていた作品のあり方などが、根本から揺るがされているかのような。
前も書いたけど、ジャコメッティのペインティングほど「貧しい絵」というのを今まで他に観た事がないように思う。あんなもの観なければよかったとさえ思う。画面の真ん中にただ顔だけがあり、それ以外は何もない。顔は、時間や空間のなかで現れるが、時間や空間の上に位置づけられない。そのような顔のあらわれは、それを観る者の網膜に貼り付き、観る者にカタレプシー的な固着状態を強いる。あれらの作品を観たという経験と、それらが、海に向かって開かれた、こじんまりとして気持ちのよい美術館にあったという事実がどうしても結びつかない。ある展示室では窓が切られていて、作品を観ながら外も見えていたというのに。
(ジャコメッティの作品ほどサイトスペシィフィックから遠いものはないだろう。どこに置かれようと、どんな状態で展示されようと、その作品からは、その作品の意味以外のものを発見する事はないだろう。「作品」というものが表現という次元にあり、自然に存在する物質と根本的に別ものだということを、こんなに強く主張する作品も珍しい。)
人間は顔をもっているが、それは決して自然な物質としての身体の一部ではない。セザンヌは、顔を、ほとんど、たんなる頭部として見ることで人物を描くことが出来た。マティスは、顔を、ほとんど記号と化した、ただ「顔である」ことを示すだけのものとして処理することで人体を描くことが出来た。ピカソは、顔を、半ば、たんに造形的に捉え、半ば、社会的な意味として捉え(個人の同一性を保証するようなもの、つまりほとんど似顔絵のように捉え)ることで、人物を描く。そのようにして「顔」を避けなければ、おそらく人物や人体をまるごと捉えることは出来ないと思う。ジャコメッティは顔に捉えられてしまうので、ただ「顔」を描くことしか出来ず、結果、ただ顔だけがある絵になる。こんな絵は最悪なのだが、この顔の現れの異様なクリアーさは一体何なのだというのか。
(この世界のなかには「顔」というものがある、ということを、ぼくは八十年代のゴダールの映画を観てはじめて発見した。それは、身体の自然な連続性から切り離されたもの、純粋に表現へと変質した身体=物質であり、映画のクローズアップはまさにそのようなものをあらわに見せる。特に八十年代のゴダールは、まるで風景のように顔を撮り、それによって逆に「顔」を浮上させる。しかし、ジャコメッティの顔は、そういうものとも異なる。しかし顔もまた、作品と同様、表現という次元に存在するねと言えるかもしれない。)
ある程度絵を描く技術を持ち、ジャコメッティの印刷図版だけを見る人ならば、それを真似することはたやすいと感じるだろう。しかし、実物の持つ異様な強さを目にすると、まず、真似をしたいとは思わないだろう。この人は病気なのだから、あまり近づかない方が良いとさえ感じるのではないか。(つまりジャコメッティの作品は「ジャコメッティの作品」としての意味しか持たず、そこの技術的に参考になるものは多分なにもない。)そこには固有の病があり、自らの病に徹底して忠実であろうとする精神があり、妥協することのない制作への探求があり、その結果として、見誤りようがないくらいくっきりと浮かび上がる病の実質の形象化がある。それはクリアーで鋭く、深いものではあるが、泥沼のように人の足を取って拘束し身動きを失わせるものだ。
しかし、以上のことは、ジャコメッティのペインティングについてであって、彫刻はまた少し異なる感触をもつ。それは、彫刻とペインティングで別のことが追求されているということではなく、あきれてしまう程に全く同じことがなされているにも関わらず、その作品から受ける感触が異なるのだ。前にも書いたが、ペインティングはそれを観る者に距離をとることを許さずに、その空間の失調に巻き込むけど、彫刻はそこに距離を設定する余裕のようなものを観る者に多少なりとも可能にする。この違いは何によるのだろうか。
ジャコメッティの彫刻で、胸像のように顔が主に問題にされる時は、それほど細くも小さくもならない。つまり興味は顔の部分に集中されていて、顔以外の部分は、粘土を積み上げたほぼそのままがざっくりと残されているという感じで、細くなる程までには手がはいっていない、ということだろう。それは、顔の部分ばかりが主に線が重ねられていて、それ以外はアタリのような線のみで示されるペインティングと同様の手の入り方だといえるだろう。つまり胸像や頭部の像の場合、そこで追求されていることの有り様も、そのアプローチの仕方も、ペインティングとほとんど同じなのだ。にも関わらず、彫刻とペインティングでは、その感触に違いがあるとしたら、彫刻が現実の空間のなかで直接つくられるのに対し、ペインティングにはフレームがあり、それを観る者が、自らの視野(あるいは自らがいる空間)と、そのフレームとを重ね合わせるように観てしまい、そのフレームに縛られてしまうからなのだろうか。現実空間のなかに直接置かれる彫刻ならば、それがいかに強く人を拘束するものであったとしても、作品がその空間すべてを支配することは出来ず、観者にも、わずかに身動きするスペースが与えられる、ということなのだろうか。
だから彫刻作品は、(ジャコメッティに固有の「病」の密度を実現しつつも)病的な強さからは逃れられているように思う。ジャコメッティはやはり、画家ではなくて彫刻家なのだ、ということなのか。