引用。メモ。「世界における索引と徴候」(中井久夫)より

●引用。メモ。「世界における索引と徴候」(中井久夫)より。
●《フロイトの夢の研究に徴しても、老人の回想に照らしても、「現在との緊張における」という限定詞つきの意味での「個人的過去の総体」は一般に「人格」と呼んでいるものにほぼひとしい。人格は、このように「イディオス・コスモス」(昼に対する夜、「共通世界(コイネー・コスモス)」に対する「そのひとかぎりの世界」引用者註)の性質を帯びている「メタ世界」すなわち「イディオス・メタコスモス」である。(略)》
《「私のメタコスモス」を簡単に「メタ私」と呼ぶことにしよう。「メタ私」は私の現在の意識内に即時全面展開は不可能である。かりにできるとしたら、私は即座に崩壊するであろう。この展開を阻止して人格の崩壊を防いでいるというのが、サリヴァンの概念を使えば「自己組織」self-systemのうちのもっとも重要な面である。統合失調症は、このシステム自体の危機である点で他のすべての精神障害と区別される。しかし、この場合といえども完全な消滅ではなく、最悪の場合にも、一種の自治組織のようなものが二次的に生じて「自己組織」の代用をする。》
《私は私の「メタ私」をじゅうぶんには知ることができない。知ろうとするこころみの多くはさいわいにも挫折する。それは、三次元の図形が二次元に還元しえないのと同じである。》
《他者についてはどうか。他者の現前意識の中にはいりこむことができないのは、いうまでもない。(略)》
《私が他者の現前意識、すなわち他者の「比例世界」、他者の「私」にはいりこめないことは自明の前提としてもよかろう。しかし、他者の「メタ私」についてはどうか。なるほど、他者の「メタ私」を完全に知ることはできない。しかし、それは私の「メタ私」についても同様である。「私の現前する「私」」と「他者の現前しているであろう「私」」との間の絶対的な深淵のようなものはない。》
(略)
《(略)他者の「メタ私」は、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一の---と私はあえていう---水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているではないか。親子、配偶者などの周囲の重要人物の「メタ私」についてのある微妙な型の無知も、ほとんど同じ意味で、家庭生活の遂行上の必要条件ですらある。フロイトが「エスありしところにイッヒ(私)あらしめよ」といった後を受けて、ヴィルター・シュルテが「イッヒ(私)であったものをエスに返してやることも必要だ」と述べていることを想起しよう。》
●もうひとつ。
●《(略)統合失調症の発病過程は、チェルノブイリの事故に似ている。無理に出力を上げようとして、ちいさな破綻やや失調の連鎖が起こり、それが破局までゆく。ゆかなくて済んだかもしれないし、そういう場合が実際には暗数としてずいぶんあるのだろうな。
事故分析家・柳田邦男の名言に、事故とはこういうものだというのがある。迷路というのは入ったらなかなか出られない。そういうものが、ほとんど迷路の定義だと言っていい。しかし、確率的には稀なんだが、迷路に入って障害にぶつからずにすっと出られる場合がありうる。それが事故だという。迷路とはまさに安全装置。特に積分回路認知システムはその役をしている。原子炉と同じく、中枢神経系は非常に危険な代物だから、原子炉と同じく百分の一くらいの安全率をかけて運転しているのだろう。チェルノブイリでは暴走の直前には四百倍の出力が出たという。》