アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』(0)と(1)を観た

●DVDで出ていたアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』(0)と(1)を観た。これだけじゃまだなんとも言えないけど、原作が、視覚的な要素や動きがきわめて乏しい、基本的に「語り=言葉」で構築された、理屈っぽいとも言えるものなので、アニメとして成立させるのは難しいんじゃないかと思っていたけど、話の進行のテンポをかなり早くしたり、カット数も多くして、その短いカットに多くの情報を詰め込んだりして、動きの貧しいところを補おうとしていて、かなりがんばっているという印象。(テレビ放送時は時系列通りではない順番で放映されたらしいけど、そのような情報のかく乱も、動きの貧しい話に動きを成立させるためなのだろう。)話や人物の動かなさを、ロケーションの多様さ、場面設定の面白さでなんとかしようとしているのも、成る程と思う。ロケーションの設定に凝っているところが、今後の展開で、たんに風景ではなくて空間として機能するような展開になってゆけば、さらに面白くなりそうな感じはした。(アニメでは、紋切り型の風景表現で「情感」を出して満足してしまったりすることがしばしばあるようにぼくには思える。『ほしのこえ』みたいな。ロケーションの設定が、たんに視覚的な多様性で目先を変えるというだけでなく、その空間のなかで人物なり、その空間自体なりが動いてゆく感じがあってはじめて、ロケーションが生きるのだと思う。例えば『フリクリ』みたいに。)
基本的に「キョン」の一人称であることによって成り立っているような世界(ハルヒは常にキョンによって見られているハルヒである)が、アニメになると必然的にキョンも他と同じ一人の登場人物になってしまうのをどうするのかとも思ったけど、古川登志夫森本レオみたいなキョンの語りを、画面内からも画面外からも過剰に被せる(ほとんど常にキョンが何かしら語っている)ことで、これがあくまで「キョンから見られた世界」だという感じも結構出ていた。(それにしても、オタク的心性の理想的な自分語りの形式を確立したという意味で、古川登志夫は偉大なのだなあ、と改めて思う。古川登志夫=諸星あたる的な語りは、オタク的主体がそうなりたくて決してなれない(あたるやキョン自身は決してオタクではないのだけど)理想的な自我の有り様を体現しているように思うのだ。だからこそそのスタイルは凄く「恥ずかしい」のだが。)若いのに妙に老成したようなシニカルな「語り」を過剰に繰り出すことによって(過剰に語りつづけことはつまり、自分は積極的に望んでそうしているわけではなく巻き込まれているだけだとか、状況から半歩引いているとか、そういうエクスキューズを常に確保するということで)、生々しいものや核心から目を逸らし、責任や後ろめたさを背負う事なく済ませようとする(それで済んでしまうからこそ、つまり生々しいものはハルヒが全部そろえてくれるし、尻拭いは宇宙人や未来人や超能力者が全部やってくれるからこそ、キョンは自分は全く傷つくことのないままで「生々しさ」を享楽することが可能で、だから『ハルヒ』の世界はキョンにとってユートピア的なのだが)キョンのあり様は、まさに(ぼく自身もそうである)オタク的心性が望むものそのもので、ぼくは、まるで自分自身の欲望の有り様をまざまざと見せつけられているように恥ずかしくもこそばゆい。(そしてこれは舞城王太郎の短絡的断言や西尾維新の戯言同様、村上春樹的一人称の極端な発展形でもあるように思う。とはいえ、『巨人の星』の星飛雄馬から『エヴァ』の碇シンジまで、日本のアニメの主人公は古くから、常に過剰な自分語りをしつづける者も多いので、その伝統も生かされている。誤解をさけるために付け加えれば、シニカルで過剰な語りによって世界からの緩衝地帯を設けることが逃げや誤摩化しであると非難しているわけではない。それは「私」を安定して走行させるために必要な装置であるのだから。キョンハルヒを浸す退屈や憂鬱は、その安定に対して支払われる代価であろう。例えば『銀河ヒッチハイクガイド』を包むシニカルで退屈な調子は、あまりにナンセンスで予測不能な世界に対処するために「私」が取る不可避的な選択で、その「退屈」に込められた様々な感触を味わえないならばこの話は全く面白くないだろう。ただ、『銀河』に比べ『ハルヒ』における安定の作動のさせ方や、退屈の処理の仕方は、あまりに都合良過ぎ(幼稚すぎ)て、『銀河』のような複雑な味わいはないという気はする。でもそのあまりに強引な「都合の付け方」こそが『ハルヒ』の独自の面白さなのだけど。)
で、このような構造をなぞりつつも、アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』が、アニメ的な高度な視覚的表現を駆使することで、そこからはみ出して、別の感触を生み出すことが出来るのか(例えば『フリクリ』が、少年の成長という「物語」を、しばしば、その「即物的な感触を持つほどの強度にまで圧縮された視覚的な比喩表現」によって食い破ってしまうように、あるいは『少女革命ウテナ』が、「物語」のバリエーションを徹底して酷使することで、その先へ突き抜けてしまうように)が見ものなのだけど、ぼくが観ることが出来たところまでだと、アニメ版『ハルヒ』における情報の圧縮やかく乱は、『ハルヒ』的世界構造にきれいに納っているように思える。(つまり傑作の気配はあまり感じない。)それはそれで、そのユートピア的感触を(和みつつ)楽しめるのだけど。
不満なのはキャラクターデザインで、「キョン」と「ハルヒ」は良いとしても、「みくる」と「有希」は、あまりにも工夫がないというか、典型的すぎて(「いわゆるひとつの萌え要素」の集合でしかなくて)、あまり面白くない。