●深夜アニメ。『ユリ熊嵐』が終わった後の燃え尽きた感のなかでも、ちょこちょこ観てはいる。今のところ、ちょっと期待できそうな感じなのは『レーカン!』くらいだろうか。
作品としてはほぼ期待できない感じなのだが、別の意味でちょっと気になるのが『長門有希ちゃんの消失』。キャラというのは、どの程度までの改変に耐えて同一性を保てるのかという、キャラの媒介能力に関する実験として、興味がある。
まず、なぜ今頃になって「ハルヒ」のスピンオフなのかという今更感が強いのだけど、それはひとまず置いておく。
絵柄が微妙。京アニの(アニメとしての)オリジナルにどの程度寄せようとしているかのコンセプトがよく分からない感じ(とはいえ、京アニのオリジナルも、2006年のやつと2009年のやつと劇場版とでは、けっこう違っている)。わざわざ、声優をすべてオリジナルと同じにしている割には、絵の近づけ方(遠ざけ方)が中途半端であるように感じられる。不気味の谷に落ち込むみたいな、妙な近づけ方だと思う。
しかし、それよりも違うのは性格というか人格というか、この人全然長門じゃないじゃんとしか思えない。長門というキャラの無口さは、究極に拡大された冷静さというか、すべてを見通しているところからくるもので、それはあるミステリアスな感じに通じる。しかし、同じ無口でも、それが内気であるせいだとなると、意味がまったく異なる。冒頭近くで、朝倉から乱暴な起こされ方をした長門が「ひどい」とか言うのだけど、長門は絶対「ひどい」とか言わないだろうと思う。
この「長門の内気バージョン」は、『涼宮ハルヒの消失』に出てきた長門だと考えられるので、一応、オリジナルに根拠を持ちはする。しかし「ハルヒの消失」の長門は、表の長門がいての、あくまで長門の裏バージョンであり、表との関係性(落差)において長門である資格を持つ。しかしここ(この作品世界)ではおそらく、表長門は存在しないし、想起すらされないだろう。
性格が違うということは、仕草や表情やセリフも違うということだ。オリジナルの長門も、この作品の長門も、同じ茅原実里が声をあてている。同じ声優なのにもかかわらず、行動も発する言葉も違うので、長門の声には全然聞こえなくて、ただ「茅原実里の声」に聴こえる(実際、茅原実里の演技は、オリジナルに近づけようとはあまり考えていない感じに聴こえる)。要するに、絵柄も性格も声も違って、名前だけが同じという感じなのだ。
そして、長門以上に違っているのはキョンだ。もともと「ハルヒ」シリーズは、キョンによる独特な語りによって特徴づけられる。しかしここには、あのキョンの語りがない。ナレーションがないというだけでなく、セリフや行動もまた、キョンのものとは思えない(おそらく、あの高度な「キョンの語り」を正確に再現できるのは、原作者の谷川流だけだろうと思う、その意味で、キョンは共有され得るキャラにはなりにくいのではないか)。行動もセリフも妙にイケメン風だ。長門長門でない以上に、キョンキョンではない。
そもそも、キャラのもつ媒介性とは、キャラの同一性(図)が、作品というその舞台、環境、地を越えて、二次創作など、別の地の上にも転用が可能であることだと言える。だがここで起きているのは逆のことで、主要キャラの同一性の揺らぎが、作品世界(舞台、そして朝倉、朝比奈、鶴屋といった周辺的なキャラ)という地の同一性によってかろうじてつなぎとめられているという事なのだと思われる。
あきらかに長門じゃないし、あきらかにキョンではないのに、世界のなかで、長門キョンと同じ位置を占めている人がいる。これは、家族や友人から「親しさ」の感覚が消失して、いつのまにか宇宙人と入れ替わっていると主張する人の感じに近い奇妙さなのではないかと思う。
●あるいはキャラは、イメージの問題ではなく固有名の問題なのだろうか。長門と名付けられ、背が低く、眼鏡で髪が紫の少女であれば、他にどのような変形がなされていても「長門有希」という同一性として処理されるのか。それとも、この作品の不気味の谷的な長門が、ミクダヨーのような、独自の表現性を獲得してゆくのだろうか。
(ぼくがここで比較しているのは、原作小説のシリーズ、京アニ版アニメシリーズ、この作品――アニメ――の三つなのだが、もともとこのアニメには、原作小説と京アニ版アニメをオリジナルとしたスピンオフもののマンガが原作としてある。つまり「スピンオフ物のマンガ」の「アニメ化」だ。さらに、原作者であるマンガ家には同様のスピンオフマンガ『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』という作品があり、そのアニメ版もある。さらに本作にはノベライズ版もあるそうだ。ゲームともかもしかしたらあるのかもしれない。まさにポストメディア的な展開。だから本来ならこのような話は、これらすべてを――あるいは無数にあると思われる「ハルヒ」物の二次創作なども含めて――参照した上でなされるべきなのだが、そこまでする意味があるのかどうかは、この第一話を観ただけではなんとも言えない。この日記ではただ、第一話を観た時の不思議な――不気味な――感触が素朴に記述されているに過ぎない、ということです。)
(「原作小説」と書いたけど、ラノベの場合は「原作【小説+イラスト】」と書くべきで、イラストも欠くことのできない作品=原作の一要素というべきだろう。)