●深夜アニメ。『長門有希ちゃんの消失』。6話では、半ばやけくそ気味に、「あー、もうこの世界を受け入れるしかない」と感じて、なんとか受け入れられたと思っていたのだけど、7話になって、キャラクターのゲシュタルト崩壊のような事が(ぼくのなかで)起こってしまった。
再び、長門有希が全然「長門」として感じられなくなってしまったのだが、それだけでなく、長門小鳥遊六花にしか見えなくなってしまった。キョン長門の二人の掛け合い場面も、ユウタとリッカにしか見えなくなってしまった。
やはり、キャラクターの同一性は、そんなに安定的に作動するものではないのだなあと思った。キャラクターの維持には一定のクオリティが必要で、クオリティがゆるみ、類型化すればするほど、別のキャラが混ざってきてしまう可能性が大きくなる。でも、まあ、それはそれで面白いともいえる。固有名の離散性とイメージの連続性とが、両方作動してしまうような「ゆるんだ領域」がある、と。
●『放課後のプレアデス』で宇宙人が、「我々が生き残ることの出来る可能性を、可能なすべての宇宙について調べたのだけど一つもなかったので、どの可能性も選ばないことによって可能性の外に出て、実質的に時間をとめて眠りについた」というような、けっこう大胆なことをさらっと言っていたのだけど、物理学的、あるいは数学的に、この理屈は「通り得る」話なのだろうか。
原理的には無限にある「可能な世界」のどれにおいても可能ではない何かがあり、しかしそれが、無限の可能性の「外」ではあり得る、という理屈の元ネタになるような、宇宙論の仮説とか数学の分野とか哲学とか、そういうものが何かあるのだろうか。
イーガンの「無限の殺人者」みたいな方向にもっていくのかなあと思っていたのだけど、もっとすごい理屈が出てくるのだろうか。