ラカン派における「倒錯」の構造の基本を、河野一紀「倒錯論のアクチュアリティ」(「現代思想」5月号)を読む(要約する)ことで、ざっとおさらいしてみる。
●まず前提となる構図。『人はみな妄想する』(松本卓也)によれば、ラカンは、人間はすべて神経症、精神病、倒錯の三つの心的構造の「どれか」をとり、その中間はないと考えた、と。それぞれは、〈父の名〉に対する抑圧(神経症)、排除(精神病)、否認(倒錯)という三つの異なる否定の仕方に由来する。「抑圧」とは、否定しながらもそれを保持する否定であり、「排除」はすべてを消し去る否定である。
(対してクライン派では、主体はすべて「妄想分裂ポジション(精神病的)」と「抑うつポジション(神経症的)」の両者をもつとされる。)
とはいえ、晩年のラカンでは、象徴体系を支えるシニフィアンは存在しない(大他者の大他者は存在しない)ことから、人間には基本として、心的構造(神経症・精神病・倒錯)の如何にかかわらず「排除」と呼びうる穴があるという話が出てくる。この、構造的な排除はミレールによって「一般化排除」と名付けられ、精神病の構造が一般化される。つまり、すべての人の心的構造は基本として精神病的である(神経症は、精神病の部分集合のようなものになる)、と。
●そして「倒錯」について。臨床構造(神経症・精神病・倒錯)とは、享楽という現実的なものに対する防衛の様相であり、それは、それぞれ固有の欲望により規定される。
倒錯者は、去勢(原初的な享楽の消失)の回復を、自らが「他者の享楽の道具となる」ことによって「他者」の場において実現しようとする。つまり、自らが他者の「享楽の対象」となることで、「他者」に「享楽の意志」を生じさせようと試みるのだ、と。例えばサディズムでは、苦痛に満ちた快の極限において「被虐者」の場に享楽の意志を出現させようとする。ここで被虐者(パートナー)は「規範としての他者」を体現する存在である。あるいはマゾヒズムでは、「他者から発せられる声」に服従する対象に、自らがなることで、他者の身体に享楽を回復させようとする。
神経症者にとって「去勢」は「真理の時宜」であり、それ(真理≒去勢以前の享楽)は常に「今ここ」を逃れ、いつも別の所にあるか、早すぎるか遅すぎるかである。しかし倒錯者において「去勢」は「真理の地点」である。倒錯者は、「去勢を被っていない身体の享楽」(というユートピア、あるいは真理)が存在すると信じ、それを果敢に追及する。そして、そこへと至るための実験・実践へと他者を巻き込むことで、その信仰を証明しようとする。だから倒錯行為の実演(実践)は、身体に享楽を呼び戻す術を「自分は知っているのだ」という(「他者」に対する)顕示・誇示の行為でもある。
だがここで、享楽は「他者」の場に生じ、倒錯者はあくまでパートナーとの「想像的同一化」によってその享楽をかすめ取ろうとする。したがって倒錯者は、「自らの享楽の喪失」そのものを埋め合わせることは(原理的に)できない。
倒錯者は皆、それぞれに「身体は何によって享楽するか」について一家言を有し、その持論が他者との関係やそのアプローチを独自なものとする。これは、「他者の症状」にしか興味をもたないヒステリー者や、身体の享楽から注意深く距離をとろうとする強迫神経症者とは対照的である。
《倒錯者では「欲望はあらゆる要求の中心にある」のに対して、神経症者にとって「欲望は要求の彼方にある」》
倒錯者の主体は、(1)他者の享楽の道具となること、(2)自らの享楽は他者との想像的同一化に依っていること、により、主体の消失を引き起こす。倒錯の臨床構造が「否認」によって印づけられるとするならば、それは、その試みのすべてが、「去勢がもたらす喪失を贖うために他者に対してなされる犠牲」であることを意味する、と。
●このテキスト(「倒錯論のアクチュアリティ」)ではこの後、「欲望」と「愛」への考察を経た後、「倒錯」的な主体がやや批判的に扱われ、そして、「科学のディスクール」がまさに倒錯的なものであること(しかも、倒錯者とは違って社会的紐帯を生まない倒錯的ディスクールであること)が主張されている。これが非常に興味深いし、なんとも味わい深い。
《倒錯が示す幻想の論理とは、去勢という真理の地点を形式的に位置づけ、予測計算(calcul)による余剰享楽の追究を通して、身体における享楽の喪失を埋め合わせようとする操作の過程である。》
《倒錯の主体が犯している誤謬は、享楽に関しては非一貫的でしかありえない他者の欠落を不完全性と取り違え、それを補完するという不可能な企てに専心するところにある。》