●『ニューロラカン』(久保田泰考)、最後までざっと読んだ。面白かった。これは、あらためて精読したい(特に後半)。ここでは、人間の思考装置=機械である「脳」と、ウイルスのようにその脳を宿主として、生体的な脳とは自律して独自の進化をする言語構造(ランガージュ)があり、その両者のはたらきとして(というかむしろ、言語構造のはたらきとして)「わたし(自我)」が生じるという感じで考えられている(「わたし」とは「わたしの脳」にとっての他者である)。思考過程=脳の機能が壊れてしまった精神病者が、ただ支離滅裂になるのではなく、それでもなお「わたし」のことばかり語りつづけるのは、脳の失調に対する、言語構造による代償行為として「語ること」が生じるからではないか、と。故に、精神病に対しては、「言語」によってのみ接近可能である、と。以下、ランダムな抜書き。
《「Aさんは、実はB先輩と付き合っているんだぜ」などという幻聴はありえない。それは必ず幻聴を聞く「あなた」についてのコメントであり、知覚される対象である声は、必ずそれを知覚する「あなた」とワンセットになっている。それゆえ、幻聴を聴く精神病主体は、単にある噂話を聞くのではなく、必然的にその噂の中に取り込まれているのである。》
《(…)たとえばシュレーバー自身の言語化されざる同性愛的なパッションといったものはなく、あくまで言葉によって分節化された言説の中に見いだされる無意識の願望=「他者の欲望」(ラカン)なのである。それが精神病現象において(要素的な現象として)どれほど明白にあらわれることになるか---シュレーバーはその「他者」の同性愛願望を正確に報告するしかない---ということにこそ、私たちは目を見開かなければならない。》
統合失調症の意味そのものの次元の病理は、言語(ランガージュ)の構造自体が「語る」といった事態を考慮して考察されなければならない。すなわち、何らかの異常な意味体験が内的に出来上がったものとしてあり、それを内部の冷静な観察者たる〈私〉が報告するのではなく、意識に意味のある思考をもたらすメカニズム=言語構造自体が、おそらく限定的な主体の関与のもとで、それ自体を明るみに出す、という状況である。》
フロイトはそのことに、統合失調症の患者は語を「物」のように取り扱うという点から気づいていた。患者にとっては、すべての象徴的なものが「現実」となっている。それは意味の外にある誰も読めない文字のようなものである。》
《脳・ネットワークが意味処理を行うとして、それは「誰」にとっての意味なのか(つまり、脳にとって「他者」はあるのか)が重要なのであり、それはもちろん、意識している自我=私、である。私たちが考えているのは、無意識の計算機構から意識の領野(知覚も含めた)という「外部」に出力される限りでの「意味」ということになる。》
《(…)フロイトの「事物表象」を脳における処理プロセス、主に大脳皮質の感覚野(おそらく一次視覚野以降のものだろう)のネットワークにおける行動状態として捉えることは、それほど荒唐無稽なメタファーでもないだろう。たとえば、シナモンという「言語表象」について、それに対応する意味論的なレファレンスとは、その語によって想起されうるこれまでの知覚経験の総体の神経ネットワークにおけるすべての再表象化と見なされうるし、そうしたものとしての事物表象を神経科学の文脈におき直すことは、むしろ自然なことだろう---初めて舐めたシナモンキャンディの奇妙な風味、カプチーノに添えられたシナモンスティックの香り等々。実際、シナモンという単語を聞くことは、無意識のうちに聴覚皮質の活動性を高めることが知られている。そうした知見をふまえてはじめて、私たちはここで「意味は脳である」と断言することになる。》
《実際それは、今日の一部の神経言語研究者が唱えるテーゼなのだが、同時にほとんどフロイディアンなのだ。そのような理論的枠組みから、統合失調症の言語使用の特異性は、脳=意味の側の混乱に対する、言語システム(それ自体が構造として一定の自律性を持っている)の側からの、それ自体ある程度自律性をもった反応であるとみなす可能性が開かれる。すなわち、「無意識について」におけるフロイトの仮説に沿って言えば、彼にとっての統合失調症の言語性病理の本質は、言語表象による、事物表象=レファランスの喪失(に限りなく近い混乱)に対する代償行為である。》