●昨日、成瀬の『稲妻』を観ている時に、なんとなく連想して観たくなって、ジョージ・キューカー『素晴らしき休日』を、ネットで探して、iTunesの配信で観た。二十代の頃にすごく好きだった映画だけど、観るのは二十数年ぶりだと思う。
物語としては、自分自身の境遇に閉じ込められたお姫さまであるキャサリン・ヘプバーンを、自由奔放な王子様であるケイリー・グラントが救い出すというような話。お金持ちの大豪邸の一室に、子供時代の思い出が固着したまま残されたような「遊戯室」があり(この遊戯室はそもそも、彼女自身、資本家の家に馴染めないまま死んでしまった母親によってつくられたものなのだが)、そこはいつまでも消えない移行対象のような空間で、資本家の生活や価値観に馴染めないために、キャサリン・ヘプバーン(とその弟)は、子供時代の夢の場所である「遊戯室」に取り残されたまま抜け出せず、いわば精神的にそこに幽閉されている。そこへ、妹の婚約者として、自由奔放な変人であるケイリー・グラントがやってくる。彼の奔放な行動力によって、閉ざされた遊戯室とその外に広がる資本主義空間という配置は、外に開かれた遊戯空間と、その価値観のうちに囚われて閉じた資本主義空間という風に反転される(かのように見える)、と。
とはいえ、ぼくが惹かれていたのは、ある意味で病的ともいえる感じで閉じている「遊戯室」の、その閉じられていることによる幸福感のようなものだった。キャサリン・ヘプバーンの妹であるドリス・ノーランとケイリー・グラントの婚約を祝うパーティーが、様々な有力者や権力者を集めて盛大に行われているその時に、おなじ豪邸の外れにある「遊戯室」では、そこに馴染めないごく少数の変人たちが集まって、とても小規模な、しかし極めて親密で幸福なパーティーが行われている。
とはいえ、この幸福感はあくまで閉じられていることによって成立しており、部外者が入ってくるや否や、それまではしゃいでいた空気が一気にしょぼんと萎びてしまうような、ひ弱なものだ。変人たちにはみな力はなく、盛大なパーティーでは委縮してしまうのに、このような親密な場でだけ、盛大にやっている奴らに威勢よく悪態をつくことができる。そもそもこの「遊戯室」からして、お金持ちの大邸宅の小さな一角として、つまり彼らの財力によってはじめて成立するような場所だ。キャサリン・ペプバーンや、その弟のリュー・エアーズは、資本家たちの世界に順応することも、それを嫌ってその外で自分の力で生きてゆくこともせず、父の庇護と母の呪いに守られて(閉じ込められて)、この「遊戯室」で退行しているだけともいえる。
しかしそうだとしても、厳し過ぎる現実から遮断され、少数の変人たちとの親密さが成立するこのような空間がいかに重要であるか。実際、このような空間があるからこそ(そのような空間のなかでこそ)、キャサリン・ヘプバーンは、大学教授夫妻のエドワード・エベレット・ホートンとジーン・ディクソや、ケイリ―・グラントに出会える。彼ら、彼女らと、街中ですれ違っても、互いに共通する「しるし」をみつけられないので、出会えないだろう。外から来た彼らは、閉ざされたものの内側で、あたかもはじめからそこの住人であったかのように振る舞う。それによってキャサリン・ペプバーンは、自らを閉じ込める「遊戯室」の内側に、外へと出て行ける通路をみつけることができる。それは、遊戯室を取り囲んでいる外とは「別の外」への通路だ。
ケイリー・グラントは、そもそも妹のドリス・ノーランの婚約者としてこの家に現れる。彼は、十歳から働きはじめ、自分の才覚だけでビジネスマンとして成功を収めようとしている。そんなケイリー・グラントに、ドリス・ノーランは事業の創始者である祖父の姿を重ねている。しかし一方で、ケイリー・グラントは、ビジネスの世界の落ちこぼれである「遊戯室」の住人たちとの親和性が高い。彼はもともと事業での成功を目的としてはいなくて、一定額の貯金を得たのちには、仕事をやめて「人生の意味」を考えようとしているような、浮世離れした、夢見がちな人である。彼は生まれが貧しかったから働かざるを得なかっただけであり、そもそも「遊戯室」の住人と同類なのだった。ケイリー・グラントにとっては、ビジネスの世界こそが檻であり、一定のお金を得ることで、その外にある「遊戯室」に至りたいと考えている。
檻としての遊戯室にとらわれたキャサリン・ヘプバーンと、外としての遊戯室に出て行こうとするケイリー・グラントは、檻として内側に畳み込まれた「遊戯室」によって出会うことができる。とはいえ、過去への固着であり呪いであるようなキャサリン・ヘプバーンの「遊戯室」と、世界に向けて「人生の意味」を探そうとするケイリー・グラントの「遊戯室」は根本的にことなると言うべきかもしれない。しかしそこには、質的に類似するある内向的な感触があり、それが内と外との反転を可能にするのだと思う。
とはいえ、キャサリン・ヘプバーンの、「遊戯室」にひきこもる感じの内向性は多くの観客には受け入れられなかったようで、公開当時、興行的にはよくない結果だったというのだけど。