●少し余裕ができたので、『稲妻』(成瀬巳喜男)をDVDで観ていた。成瀬は素晴らしい。いや、ほんとに素晴らしい。胸に迫るとは、こういうことかと思った。
この映画における、「二階の女性」と「世田谷の下宿」こそが文化なのであり、それはもう、とてもか弱い逃避所でしかないのだけど(そして、その避難所にも「現実」としての母親がやってきたりするのだけど)、この世界では、そのか弱い逃避所だけが救いなのであって、その避難所をなんとか確保する以外に救いはなく、それ以外では、今も昔も未来も、何も変わらずに、人間はこんなことばかりして生きているほかないのだ、きっと(66年前の映画だが、人のしていることはまったくなにもかわらない)。「高峰秀子はわたしだ」、と言いたい。
しかし、(最初から避難所など必要としない人---必要としないほど強い人もいるし、必要としないほど俗な人もいる---は、別にどうでもいいのだが)、避難所を必要としていていても、避難所にアクセスできない人がいる。それが悲痛だ。高峰秀子の姉、三浦光子は、妹に導かれて「世田谷の下宿」までやってくるのだけど、彼女にはアクセスを開くことはできなくて、人々の流れのなかに埋没する。アクセスを得た高峰秀子にしても、何が変わるというわけではない。高峰秀子と、母親の浦辺粂子とは、決して和解などできないだろう。和解も理解もできないまま、ただ、そうであるしかしかたないものとして、相手の存在を受け入れるしかない。しかしそうだとしても、高峰秀子に避難所があることで、二人の関係に多少なりとも変化はあったようだ。
(避難所-文化を必要としない人からみれば、それを必要とする人など、無能なくせに上から目線でお高くとまったいけすかない奴ら、ということになるのだろう。そしてそのような外からの悪意は、常に避難所へと注がれつづけるだろう。避難所の人々は、それを受けとめつつ、それに対して持ち堪えて、避難所を維持しなければならない。避難所を必要とする自分以外の誰かのためにも。)
浦辺は高峰に、お前の父親からもらったものだと言ってルビーの指輪を渡す。しかし高峰は、どうせガラス玉だろうとそっけない。でも、ラストシーンで、高峰は、あれは本当にルビーだったと浦辺に言う。そして浦辺は、そうだろう、お前の父親は嘘なんかつける人じゃなかったから、と言う。この「お前の父親は嘘なんかつける人じゃなかった」という言葉を高峰はどう聞いているのだろうか。おそらく高峰は、母による、父親に関するそのような人物評そのものは大して信じてなどいないだろう。しかし、母親が、そういうことを言うしかない人だということを、ある種の諦観とともに受け入れているのだろう。そしてそれでも、高峰は(自分が自分として生きるためには)母親と一緒には暮らせないのだ。そのような母と娘が、夜道を二人で並んで歩く場面で映画は終わる。なにも解決しないし、なにも変わらないが、しかしたんに「やれやれ」と言って済ますこととは決定的に違う、感情や関係がある。おそらくここに、世界の真実がある。