2023/10/29

⚫︎『心が叫びたがってるんだ。』についてもう少し。

⚫︎成瀬にとって王子様は「くさい」。子供時代の成瀬は卵の王子に向かって「おならみたいなにおいがする」と言うし、成長した成瀬は坂上に「時々わきがくさい」と言う。そもそも成瀬自身、無理に言葉を話そうとするとお腹が痛くなってしばしばトイレに駆け込んでいるから、時々くさいはず。アニメでここまで「くささ」を強調するのは珍しい。

⚫︎成瀬はまず、歌によって「声」を回復し、歌がミュージカルへと発展することで、物語を語ることが可能になる。歌=声のレベルでは、成瀬の声=言葉は彼女自身の私的な場から発せられ、あるいは、成瀬・坂上という二人の関係の中から発せられるものだ。しかしそれがミュージカルの上演にまで発展すると、クラス全体を巻き込むものとなり、物語は、私的な場から共同性の場へと移行する。成瀬は、作者であり、主役でもあるが、それは上演全体から見ると一部だ。つまり、上演は、その震源地であり発信元である成瀬からある程度切り離されて、自律したものになる。だからこそ、上演の直前に成瀬が失踪したとしても、同級生たちが協力して成瀬抜きの上演を成り立たせることができる。成瀬の物語を語るミュージカルの上演は、成瀬と無関係なところでも、成瀬から自律して進行する。

(成瀬の物語の「上演」は、成瀬とは別の主体たちによって織りなされる、各々別の動機や目的の組み合わせによって成立している。実際、上演の準備を通して、坂上と仁藤の関係も変化するし、田崎と野球部との関係も変化する。)

成瀬とは自律して上演される成瀬の物語に、そこから一度離脱した成瀬が再び合流する。これは一面では、同級生たちのと関係を破壊して立て篭もろうとした成瀬が、同級生たちとの関係性の中に回帰することであるが、もう一面では、失踪前の「坂上を王子様とする」成瀬(から生まれた物語)と、失踪後の、混乱と破壊の中で声を取り戻し、取り戻した声による坂上との対話で「幻想を乗り越えた」成瀬とが合流するということでもあるだろう。

ここで、成瀬の代役をしていた仁藤と、成瀬自身という、二人の「成瀬役」が舞台に並び立つことになる。そしてその二人が、ベートーヴェンと「オーバー・ザ・レインボー」のメロディを借りた歌を、同時に歌うというのがこの作品のクライマックスだ。二つのメロディはそれぞれ自律しながらも同居し、二つの声=言葉はズレを孕みつつ一部で重なる。これは、失踪前の「王子様の幻想と共にある成瀬」と、失踪後の「幻想を乗り越えた成瀬」という、二つの成瀬が一人の成瀬の中に同居するということだろう。声を取り戻し、幻想を乗り越えたあとの成瀬の中にも、声を失い、王子の幻想と共にある成瀬は生きている。前者は自分の内に後者がいるのを改めて発見し、後者は新たにやってきた前者を受け入れる。この多重性の表現がこの作品の優れたところだろうと思う。

(また、上演=フィクションの場では自分自身を演じる仁藤が、現実の場では「自分の座」を奪う三角関係のライバルである、という二重性もある。)

⚫︎作中で成瀬は、自分に自分で呪いをかけていたと言うが、それは違うだろう。まずは母から言葉を禁じられたのだし、そのそもそもの原因は父にある。成瀬の呪いは父からの呪いだ(「ぜんぶお前が悪い」)。そして坂上もまた、父から捨てられた子供だ。ただし、成瀬の父が「呪い」だけを残して消えたのと違って、坂上は父から音楽のスキルと教養を受け継いでいる。成瀬が声を取り戻す最初のきっかけは、「坂上の父からの力」によるとも言える。ここに、男の子は父から「呪い」と同時に「力」も受け取るが、女の子はただ「呪い」のみを受け取るというジェンダー格差があるだろう。

(ただしここで成瀬は「呪い」を「物語を語る力」へと転化する力を持つ。しかしそのために媒介として坂上の「父からの力」を必要とする。)