●『ペドロ・バラモ』の最初の語り手であるフアン・プレシアドは、(異母兄弟であり、小説のラストでペドロ・パラモを殺す人物でもある)ロバ追いのアブンディオによってコマラという土地に招き入れられ、エドゥビヘス・ディアダを紹介される。エドゥビヘスはフアンの母ドロレス・プレシアドの友人であり、フアンは彼女から生まれたかもしれなかったのだ(ペドロ・パラモと母ドロレスとの新婚初夜のベッドで、母と彼女は入れ替わっていた)。そしてエドゥビヘスが消えた後にフアンを迎えるのは、彼の乳母の役割をしていたダミアナ・シスネロスだ。つまり、母の死をきっかけにコマラを訪れたファンを迎えるのは、二人の代理的な母(母となったかもしれない女と乳母)なのだ。
次にフアンが出会うのは、近親愛的関係にある兄と妹で、これらのコマラの住人はすべて幽霊だと考えられる。フアンは、兄が不在の時に妹に誘われて彼女のベッドに入り、それがきっかけであるかのように窒息状態になって死んでしまう。そして、気がつくとドロテアという女性とともに棺桶のなかにいる。
ドロテアは、実際には存在しない自分の子供を存在すると思い込んでいたが、天国で天使に腹のなかに手を突っ込まれ、彼女の子宮はなにも産み出さないことを示唆される。つまりフアンは、二人の代理的母に次いで、母になりたいが母となり得ない女性と出会う。
ここでフアンが幽閉される棺桶は、いわば何者もはらむことのないドロテアの空虚な子宮であるとも言えて、死ぬことによってフアンは、ドロテアの「存在しないはずの子供」として、虚の存在として生まれ(死に)変わる。コマラを捨てたドロレスの息子であるフアンは、ドロテアの子供としてその子宮にはらまれることで、改めてコマラという土地に結びつけられる(土地に縛られる)と言えるだろう。生前のドロテアは生きた子供をはらむことができないが、生の世界から反転した死後のドロテアならば、死後の世界の新たな者をはらむことができるということだ。
そしてこれは、フアンという人物が父(ペドロ・パラモ)の子ではなく「母の子」としてコマラに存在している(死ぬことで新たにあらわれた)のだということを示すのではないか。ペドロ・パラモの三人の息子(ミゲル・パラモ、アブンディオ・マルティネス、フアン・プレシアド)のうち、母が誰なのか分かっているのは(作中に明記されているのは)フアン一人だけだ。他方、ミゲル・パラモは「父の息子」であり、父の系統に属し、父の系統として死ぬ。
そもそもフアンは、母の遺言によってコマラへやってくるのだから、彼は複数の「母たち」の連携的な策略によって殺され、幽霊としてコマラに幽閉されたと言えるのだ。フアンは、既に死んだ街であるコマラに今もなお執着しつづけている多数の幽霊たちの声を聴き、幽霊たちの物語を聞く、外部から来た唯一の「観客」として招かれ、観客でありつづけるために閉じこめられる。だからフアンは、「母ドロレスの息子」としてコマラに招かれ、「母ドロテアの息子」として死者たちの世界でコマラの一員として生まれ(現れ)直すのだが、それは、お前もまた「あの父」の息子の一人なのだから、「あの父」の物語を聞く義務があり、コマラの死者たちと無縁に生きることは許されないのだ、という、コマラの死者たちからの呪いに巻き込まれてしまったということだと言えるだろう。
フアンをコマラに導く異母兄弟のアブンディオにも、父を殺した(殺さざるを得なかった)者として、兄弟であるお前が無縁であることは許されないという思いがあるのだろう。