2022/12/04

●お知らせ。12月10日からポレポレ東中野で上映が始まる、映画『にわのすなば GARDEN SANDBOX』(黒川幸則)のパンフレットに、「「十函」には内側も境界もないし、入り口も出口もない」というタイトルのテキストを書きました。全部で4400字くらいのテキストですが、下に、その冒頭部分だけ置いておきます。

 

にわのすなば GARDEN SANDBOX - YouTube

 

「十函」には内側も境界もないし、入り口も出口もない/『にわのすなば GARDEN SANDBOX』論

 

地元とよそ者

バック・トゥ・ザ・フューチャー』を楽しいコメディとは思えない。そこにあるのは、高校生時代の人間関係が大人になってもそのまま続き、さらにはその息子、「パート2」を含めると息子の息子に至るまで同様の関係が固定したまま継続している、閉ざされた地方都市のディストピアだ。そのような土地(カルフォルニアヒルバレー)の高校生マーティにとって、地元を形作る諸関係から外れている独り身で変人のドクが、土地の外への唯一の通路だった。

二十世紀にスペイン語で書かれた最高の小説の一つとされるフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』では、かつて栄えていたが既に滅びたコマラという土地を訪れたフアン・プレシアドが、土地の幽霊たちに捉えられ、墓の中に閉じ込められた上に、死者たちの上演する「嘆きの劇」の観客にさせられる。街は滅び、人々は死に絶えたが、当時の関係は幽霊たちによって保存・維持され、持続的に上演されている。幽霊たちは、観客となるよそ者を必要としている。

十函という土地=地元でタウン誌のライターをしているキタガワ(新谷和輝)は、土地の外から友人であるサカグチ(カワシママリノ)を共犯者として呼び込もうとする。ここでサカグチは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクのような外への通路として招かれているのか、『ペドロ・パラモ』のフアン・プレシアドのように、内に取り込まれるものとして召喚されているのだろうか。

『にわのすなば』という作品は、このような問いが「間違った問い」であることを、作品としてのあり方によって示しているように思われる。十函という「地元」は、ヒルバレーともコマラとも異なる形で生起している。

ここで「地元」として提示されているものは、空き地ばかりで捉えどころのない平坦な風景であり、大型車両が常に行き来する騒音であり、タウン誌の紋切り型の「地元愛」の言葉であり、旧家のヌシのような女性であり、地に足がつているとは見えない「地元内よそ者」のような人々であり、鋳物工場であり、二枚の地図であり、わずかな斜面と川と水門である。きれぎれに提示されるそれらからは「地元」という強い磁場を発生させる濃厚な関係性は見出せない。

(つづく…)

 

●買った本が届いた。

紙の本のいいところは、書き込みが自由にできるだけでなく、ネットにつながっていないところかなと思う。電子書籍だと、それを見るための媒体(タブレットスマホ)がネットにつながっているので、ちょっとした小休止の時についネットを見てしまうのだが(わからない語をすぐに検索できるのは便利だが)、紙の本はネットにつながらないので、小休止として窓の外を眺めたりすることになり、駐車場を挟んだ向かいの家の窓に太陽が反射して眩しかったり、飛ぶシラサギが視界を横切ったりするのがよい。

(最近は、新書のような、熟読するというよりサクサク読むような本は電子書籍で買うことが多くなってしまったが…。)

●メモ。後でじっくり読む(観る)。

togetter.com