2022/12/21

ポレポレ東中野で『にわのすなば GARDEN SANDBOX』を観て、その後、黒川幸則監督とトーク

この話をしようと準備して行ったのは「盲点」を感じさせるような映画だということ。盲点とは、眼底にある視細胞のない部分。我々は、視界のその部分に当たる場所が見えていない。しかし、人の視界は連続的で、視界の中に黒い丸のようなブランクがあるわけではない。つまり、盲点があるのにそれは隠されていて、その「盲点」そのものが見えていない(盲点があることが見えていない)。

この映画は、例えば「繋ぎ間違い」のようなモンタージュをしてブランクを明示的に表すのではなく(前作『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』では、どちらかというとブランクを明示的に表していたと思う)、一見、だらっとなだらかに連続性があるかのように見えていて、しかしそこここに「見えていないブランク」があるのではないかという気配を濃厚に示しているように思われる。平坦に、なだらかに広がる土地に、盲点のように見えていない穴がいくつも空いている、登場人物たちは、そのような街を不安定な姿勢で歩いている。

一日目の歩行で、サカグチが地元在住のキタガワの案内でもマスコさんの家に辿り着けずに出発点に戻ってしまったのも見えないブランクにはまってしまったからではないか。あやしいグミに誘われて迷い込んだ路地でサカグチの上に落ちてくる布団もまた、ブランクから降ってくるかのようだ。タノさんからの呼び出しでキタガワに置き去りにされたサカグチが公園に一人で取り残されたのもブランクにはまったということではないか。そもそも主人公のサカグチは、バスに乗ってこの街にやってきたのではなく、ブランクにはまって、大型トラックの騒音がグワッと室内に入り込んでくるように、この街にいきなりグワッと入り込んできたのではないか。

●帰ってからパンフレットをパラパラみていたら、村上由規乃がインタビューで《シナリオを読んで、サカグチが来たからあの町があらわたれたという感覚がありました》と言っていて、なるほどと思った。それは、サカグチの頭の中にある街ということではなく、サカグチという存在と世界の一部とが相互作用することによって、街が、現にあのような形として立ち上がった、ということだと思う。サカグチのリズムや動きがこの映画を基調を決定しているのだから、まさにこの街はサカグチとともに立ち上がっていると言える。

ブランクがあるということは、時間も空間も滑らかに繋がっていないということだ。まず、サカグチがキタガワと歩く第一の平面がある。この平面では、高校教師である釣り人が、タノさんの書いた地図は古いもので、マスコさんの家ももうないのではないかと言う。しかし、キタガワから置き去りにされ、グミを口に含んだサカグチはブランクを通じて第二の平面へ移行する。その平面ではまだマスコさんの家は存在し、そこで過去にキタガワと縁があるヨシノさんと出会う。しかしこの二つはブランクに隔てられた異なる平面なので、キタガワとヨシノさんとは出会うことができない(キタガワはマスコさんの家に辿り着けない)。だが、その後、サカグチとヨシノさんの街歩きによって第三者の平面が開かれ、スケボーが増殖し、フェスが開かれるその平面で、キタガワとヨシノさんの再会が果たされる。さらに、この街を支配する魔女のようなタノさんの自分語りによって開かれたブランクが、第四の平面として、夜の酩酊の時空を出現させ、それは「ここ」にはないはずの海の気配を呼び込む。

これらの異なる平面は、ブランクを通じて隔てられ、あるいは、ブランクによって繋がっている。しかし、時空は一見連続しているように見えて、ブランクそのものを見ることはできない。

●『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』が、(お話自体は緩いのだが)キュッと引き締まってきびきびと動く映画だったのに対して、この映画では、人物は決してきびきび動くことはなく(キタガワのダンス以外は)、映画としてもフワッと緩んでとりとめがないように見える。あくまで(ブランクはありつつ)フラットで、要素をキュッと詰め込むことをしない大胆さに驚かされたのだが、その点について言うと黒川さんは、「これでも自分なりに色々詰め込んでいるつもりだけど…」と言いつつも、「最初の20分くらいは、これで映画として成り立っているのか、何も起こらない映画だと思われるのではないかと、観るたびにヒヤヒヤする」と言っていた。そういうことをやってしまう勇気と大胆さがすごいと思う。要素やアイデアを詰め込んで、濃縮して解像度を上げていくと、作る側としては安心するし、やった感があると思うのだが、そういう「安心」の方には行かないという胆力。

セリフの聞こえづらさを、これでよしとするのもとても大胆だと思った。黒川さんはこれについても、指摘されるまで気づかなかったと言っていたが、この聞こえづらさは、ハキハキと喋らない、それぞれの人の喋り方を尊重するということと、背景音に対して、台詞を切り取ったようにくっきりと浮き立たせないことによるのだと思われる(特にキタガワの声はしばしば背景音にかき消される)。これは例えば、最近のテレビドラマ(『初恋の悪魔』など)で、早口で妙なイントネーションの長セリフでも、何の苦もなく聞き取れるように喋る俳優のすごい技術には素直に感心させられるのだが、それとは全く異なる方向へ意識的に行っているということだと思う。

俳優の固有性が強くて、それぞれの俳優の演技の質がバラバラなままで場面が構成されているのも良いと思った。溝口の言うような、いわゆる「反射している」という状態が起こっていない感じ。それぞれの人物がそのままでたまたまそこにいるという感じと、あらかじめ共有された土地としての「地元」を描く作品ではなく、いくつもの異質なレイヤーの重なりとして「この街」が現れていることとは、必然的なつながりがあると思う。

トークでは話題にできなかったが、この映画では「音」もまた大胆で面白い。最初に観た時の印象では、あえて「録りっぱなし」に近い状態にしているのかと思ったのだが、この映画では音に関しては、若い人だが、プロに任せているという。つまり、その音声担当の人が意識的にあの状態を作っているということだろう。若いカメラマンと、若い音声担当の大胆な仕事が、この映画の重要なところを支えている。

トークの時ではなく、その前の打ち合わせか、その後の飲みの席で聞いた話。ロケ地となった川口市では、水門ができる前までは荒川が溢れ、しばしば洪水にみまわれた。だからかつては、どの家にも、一家に一艘は舟があったという。その事実(歴史)が、映画の中でスケボーに変換され、「かつては一家に一つはスケボーがあった、人の数よりスケボーの数が多かったこともある」というセリフになっている、と。サカグチが、スケボーの話から漁師の船に乗っている夢の話に自然にスライドしてしまうのもまた、この歴史を反映しているのだろう。

また、撮影は昨年行われ、当然のように街を歩いている人はみんなマスクをしていた。撮影前のカメラマンとの取り決めで、マスクをした人が一人でも映ったらそのテイクは使わないと決めた。それが予想外に大変で、特に商店街の場面ではどう撮ってもマスクの人が映り込んでしまうので、何度も何度もテイクを重ねなければならなかった、と。でもそのことが結果として、この映画に映る街の、なんとも独自の「がらんとした感じ」を生んでいるのではないかと思った。