鈴木清順の『結婚』(93年)を観ることができた(黒川さん、ありがとうございます)。すごい映画だった。
そもそも、セシールが製作する「結婚」をテーマにしたオムニバス映画の一編に鈴木清順浦沢義雄のコンビを入れてくるという企画が何故成立するのかがよく分からない。企画が博報堂となっているのだけど、九十年代のはじめ頃はまだ景気がよかったし、広告代理店もゆるかったということか。鈴木清順を起用するのならば、せめてもう少しおとなしい脚本を書く人と組ませればいいのに、清順+浦沢の相乗効果でとんでもないものになってしまっている。しかしそのおかげで、このような怪作を観ることができるのだ。
(浦沢義雄といえば、ぼくにとっては八十年代の中頃に日曜の朝のテレビでやっていた「東映不思議コメディシリーズ」で、特に『どきんちょネムリン』のインパクトはとても大きかった。とはいえ、当時から浦沢義雄という名前を知っていたわけではなく、後から、あのシリーズは浦沢義雄という人が主に脚本を書いていたということを知ったのだけど。)
主題的には、原田貴和子の(つくられた)タラコ唇と、原田知世の(ナチュラルな)立派な歯並びという対比があるように思った。原田知世の歯並びの立派さはこの映画でとても印象的だし、彼女が歯科技工士の役をやっていることから、それは意識的な配役なのだと思う。やわらかくて湿ったもの(肉)と堅くて乾いたもの(骨)の対比は、『ツィゴイネルワイゼン』でも大谷直子大楠道代の対比という形であった。ここではそれが、原田貴和子の白塗りされた平面的な顔と、原田知世の頭蓋骨の形を容易に想起させる(彫りが深いというのとは異なる)立体的な顔との対比という形にもなっている。
それと、何より特徴的なのは、スタジオに組まれた巨大なセットによって可能になるカメラの上下方向への移動だろう。垂直方向の運動によって、主に世界の階層や様相の変化、バリエーションの違いが示されて、それは平面的で様々に「書き換え可能」な原田貴和子の顔に対応する。平面的な顔こそが「肉」であり「深さ」を顕現させるというのが面白い。それに対してソリッドな立体である原田知世は、垂直方向の運動とは無縁の場所に置かれている。原田知世は、新幹線のなかにいたり、田舎のあぜ道をスキップしたりして、水平方向の運動を担う。陣内孝則が彼女に会いにゆく場面では、階段もエレベーターも示されない。結婚式場でのベンガルとの追いかけっこも水平的だ。対して、四人の女たちから犯された陣内孝則が、原田貴和子の部屋へと上ってゆくエレベーターの上昇はとても印象的だ。
この映画ではじめて陣内孝則をすばらしいと思った。徹底してニュアンスのない、一本調子の、空気を読まない、躁的な演技とアクションが、原田貴和子的な、平面-肉-垂直運動的な世界と、原田知世的な、立体-骨-水平運動的な世界を媒介し、行き来する。この一種の「空元気」が、肉にも骨にも着地しない、複雑で縦横無尽な運動を可能にしているように思った。肉でも骨でもないものとしての「豆腐」。
様々な清順的な要素が集約され、それらが有機的・無期的なアクションによってなめらかにつながれている、怪作にして快作であるこの映画が、なかなか観ることのできない状態になっているのは、何とも惜しいと思う。いや、面白かった。