●(昨日のつづき)『結婚』(鈴木清順)で陣内孝則は、原田貴和子に求婚する時に「君の子供を妊娠したい」と言う。しかも、これを絶対の決めセリフであるかのように言う。これはどういうことなのか。これを、たんに男女の関係(役割)の転倒だと考えるとあまりおもしろくない。
この映画の原田貴和子は、お嫁さんにしたい女優ナンバーワンの花村華子であり、同時に、化粧を落とした後のタラコ唇の醜い女であり、同時に、下品で奔放な(ほぼ一体化した)四人組の醜い女たちの一員であり、そして彼女たちは冥界と通じているというか、冥界そのものであるような存在だ。原田貴和子(花村華子)は、世界の多層性、多義性、潜在性の塊としての肉の「表面に描かれた顔」であり、それは平面であることで肉そのものとしての厚み=深さをもつ。この映画では多様な世界は地層のように重なっており、カメラの垂直方向への運動は、世界の様々な層への移行であり、異なる存在への変化であり、世界が多層的であることの表現でもある。
一方、原田知世はソリッドな固体であり物体=骨であって、別の層へと移動したり、別様な存在へと変化したりはしない。多層構造である垂直軸を上下することなく、確かな輪郭を保った物体としての同一性をもち、水平方向へとカラカラ、コロコロと転がってゆく。
それ自体としての定まった形態をもたず、常に形を変化させながら、世界の別の様相へと転移してゆく不定形の肉である原田貴和子と、物体としての輪郭を固定させたまま横へと移動する骨としての原田知世の間にいる陣内孝則は、豆腐屋の息子であり、彼は原田貴和子へのプレゼントとしてハート型の木綿豆腐を捧げる。豆腐は、骨のように堅くはないが、肉とは異なり「形」を受け取り、保持することができる。もともと流動的な液体であった豆乳は、「にがり」と「型」によって形を受け取り、形を保持する豆腐となる。
陣内孝則もまた、映画の冒頭では冥界の存在として登場する。その時点で彼は豆乳のような流動的存在であり、世界の様々な層へ、様々な形へと変異可能な潜在的存在であろう。そのような陣内孝則が、原田貴和子に向かって「君の子供を妊娠したい」と言う時、それは、流動的な豆乳である自分が、「君」の多様な形(可能性)のうちの一つの「かたち」を自らの姿として受肉したい(形をもつ豆腐になりたい)と言っている、ということになるのではないか。実際、陣内孝則は、(原田貴和子とほぼ同体といえる)四人の女たちから犯されることで、なにかしらの刻印を刻まれたようにみえる(仕事が入ってくるようになる)。
しかし豆腐は、骨のようには堅くなく、崩れやすく、そして可塑的である。豆腐は、不定形な液体である豆乳と形をもつ豆腐との間を行き来することができる。豆腐(陣内孝則)はいわば、潜在的なものと現動的なものとをたえず交換させるための媒体と言えるのではないか。肉と骨とを交換させることのできる豆腐の可塑性こそが、「斜め方向への移動」を生みだし、それがこの映画のアクションをかたちづくるとはいえないか。