●お知らせ。明日8月22日付け「東京新聞」夕刊に、埼玉県立近代美術館でやっている「戦後日本住宅伝説」展についてのレビューが掲載される予定です。
●『アニメ・マシーン』(トーマス・ラマール)、第一部「多平面的イメージ」を読んだ。これは面白い。第一部では主に、宮崎駿について検討される(出だしは大友克洋スチームボーイ』だけど)。
以下、引用。物質的な「装置」と抽象的な「機械」について。あるいは、アニメーション・スタンドという具体的な装置と、それへの注目によって見えてくる抽象的なアニメ機械について。
(「多平面性」とは、一つのフレーム内で複数のレイヤーが同時に異なる動きをすることで、例えば「奥行き」のような感覚――遠近法的なものとは違った――が生じる、というようなアニメ的な感覚を指す。「アニメーション・スタンド」とは、複数のセル画や背景などのレイヤーを重ねて撮影するための装置で、棚の上にカメラがくっついたようなもの。)
≪私は、アニメーション・スタンドの技術的かつ物質的な特性を強調するときには、それを装置と呼んでいる。しかし、コンポジティングの議論が示すように、この技術的な集合体には、技術的・物質的な機器だけでなく、抽象的で非物質的な次元がある。これが多平面的もしくはアニメ的機械である。ガタリが用いた錠と鍵の例と同様に、映画カメラが多平面的なイメージと出会うその接点では二つのタイプの形式が作動する。第一に、ガタリが「物質性、偶然性、具体性、離散性をもち、自閉した特異性が認められるさまざまな形式」と呼ぶもの、つまり、インク、セルロイドシート、カメラレンズ、照明、フィルムなどの物質的素材がある。そして第二に、「形式的な」もしくはダイアグラム的な諸形式があり、それがここでは、具体的でばらばらの諸形式の断面を貫きながら一つの連続体として現れる多平面性にあたる。ただし、こうした多平面性は、運動の条件の下で生じるものである。このように、アニメーション・スタンドは、動画の平面間の間隔とともに作動する多平面的な機械もしくはアニメ的な機械が、局在化して凝縮する場にほかならない。
ガタリは言う。「ここで何よりもまず確認しておくべきなのは、機械ならではの効果、つまり現勢態への移行可能性は形式に関するかぎりすべて第二のタイプに結びつけるしかないということでしょう」。これらのダイアグラム的な形式は、物質化されたばらばらの諸形式の積分=統合(インテグレーション)なので、その数に限界はないように見える、とガタリは結論づけている。別の言い方をすれば、アニメーション・スタンドによって、相互に著しく異なり両立不可能でさえあるさまざまな種類の物質的素材の組み合わせ(アッサンブラージュ)や集合体(アンサンブル)が可能になるということである。これらの素材を一緒に作動させるには、いくらかでもそれらの差異を横断して積分=統合を行わなければならない。その積分=統合を行うものは素材のなかにはない。抽象的で非物質的なダイアグラム――機械ならではの効果――がそれなのである。(…)多平面的な機械は、相互に著しく異なるさまざまな物質を使用する文脈でも現れることがある。ちょうど、錠と鍵のダイアグラムがさまざまな具体的な素材からなる多数の組み合わせに見られるように。私はとくにこの点を強調しておきたい。なぜなら、今日ではほとんど誰も「伝統的な」やり方でセル・アニメーションを作ったりすることはないとはいえ、多平面的な機械――もともと一九三〇年代のセル・アニメーションの制作を中心に一体化したダイアグラム――が、現在でもありとあらゆる映画とアニメーションの様式に現れているからである。これが、デジタルで制作された多くのアニメーションがいまだにセル・アニメーションのように見える理由である。それは、単にさまざまな形式や慣例が存続していると言う問題ではなく、動画の力を特定の仕方で合理化するアニメーション・ダイアグラムとともに続けられてきた、革新の問題なのだ。≫
≪要するに、アニメーション・スタンドとともに、映画的な奥行きや運動の感覚よりも、開いたコンポジティングとそれゆえのアニメティズム――「アニメ」的な感覚――に向かう傾向が生まれたのである。映画装置(カメラ)はその運動内に固定されているか制限されており、しだって運動と奥行きの感覚を生み出す特権はもはやそこにはない。カメラは、イメージの一つのレイヤーにすぎなくなっている。アニメーション・スタンドと、イメージをレイヤーから作り上げる作業が、カメラよりも優位となり、画の中で表現される奥行きよりも優位となっている。≫
≪(…)宮崎がアニメーションを生産していると考えられるのだろうか、それともアニメーションが宮崎を生産していると考えられるだろうか(…)≫
≪こしうた問いは、それらに誤った対立が含まれているところに問題がある。そうした問いには、ある選択を強いる傾向があり、その選択内では、選択肢があまりにも硬直した形で示され、ほとんど無意味になっている。人間的な意識作用対テクノロジー決定論といった具合である。宮崎がある程度まで自分のアニメーションを決定していることは明らかだ。と同時に、私たちは、宮崎という作者が労働の組織化の効果だということも認めなければならない。そうした効果を認識したからといって、人間や人間的行為を否定することにはならない。宮崎は間違いなく行為者である。要は、宮崎が自らのアニメーションを決定論的に決定することはできないし、それと同様に、多平面的な機械がア二メーションにとってのあらゆる結果の可能性を決定論的にコントロールすることもできないということである。宮崎のアニメーションを理解するためには、宮崎を一人の人物やクリエイター以上のものとして見なければならない。私たちは、アニメーションとは何かを考察する必要があるのだ。≫