●ラマールの「アニメ・マシーン」では、アニメーション・スタンドという装置へ着目することで、アニメを規定している物質的、あるいは装置的な様々な条件(インク、セルロイドシート、カメラレンズ、照明、フィルムなど)と、それら、それぞれ閉じて自律したものを横断して作用する抽象的な力としての「アニメーション的機械」という、二つの次元の交錯を見出そうとする。
《これらの素材を一緒に作動させるには、いくらかでもそれらの差異を横断して積分=統合を行わなければならない。その積分=統合を行うものは素材のなかにはない。抽象的で非物質的なダイアグラム――機械ならではの効果――がそれなのである。》
この「機械」という概念によって、作家主義、文化的決定論、技術的決定論、制度的決定論、あるいは、アニメはたんに資本の論理によって決定される商品でしかない、というような見方のどこにも属さない、まさに多平面的な考察が可能になる。
●では、《物質性、偶然性、具体性、離散性をもち、自閉した特異性が認められるさまざまな形式》を横断する「機械」の抽象的な力とは、どこから湧いて出てくるのか。この根拠となるのは、ベルクソン―シモンドンによる「非決定の中心」(不確定性の中心)という概念で、つまり作用と反作用との間にある遅滞だ。この遅滞が、作用・反作用の因果的決定論を後退させ、関係を組み替え可能にする余白を生む。そこに思考が生じる。
ベルクソンにおいてはこの遅滞は生物にだけ適用される。しかしシモンドンにおいては技術的な対象においてもそれが適用される、と。生物が、環境との関係(遅滞を孕んだ相互作用)において思考するのと同様に、技術的な対象は、それを制作し使用する人間たちによって相互に結びつき、「技術的な集合体(アンサンブル)」を形成し、その中で進化し、思考を行う。「技術的な集合体」のなかに人間が含まれることで、技術的な集合体それ自体が内部に「遅滞」をもつことになり、それによって技術的な対象が「思考する」と言えるようになる。
それって結局、人間が考えているということなのではないかという疑問も生まれる。しかしそうではなく、人間が技術を生み出したとしても、そこで生み出された技術が人間の生きる世界の条件となって人間を従わせもする。人間は技術に従い、しかしまた、技術を利用したり、技術を作り替えたり組み替えたりもする。そしてその新たな技術が人間世界の条件を変え、人間はそれに従わされもするし、新たな可能性を得られもする。そしてそれがまた、新たな技術の制作へと繋がる。技術は、人間がいなければ自身を変化させることは出来ないが、人間は、諸技術のつくりだす環境に強いられて自分を変化させるし、そのなかで、それを通じてしか考えたり行動したりできない。技術だけが考えるのでもなく、人間だけが考えるのでもない、その相互作用によって「技術的な集合体」が考える。ここに、人間中心主義でも、技術的あるいは制度的決定論でもない世界、ガタリの描く「機械的な突然発生=他者創出(ヘテロジェネシス)」が可能になる世界の根拠がある。
●勿論ここで、人間は一人ではない。様々な技術的な対象が閉じて離散的にあるのと同様に、様々な他人たちが離散的に存在し、それらが様々な仕方で関係し合い、お互いに相互作用し合っている(誰か特別な一人が決定するのではない)。そのような、それ自体としてはとりとめもないダイアグラム的な関係の網の目のなかに、様々な「機械」による抽象的な力が作動することによって、様々な権力や領域や領土、その強弱や濃淡などが発生し、機能しはじめる(いや、ニワトリが先か卵が先がという感じだけど、機械の力によって相互作用が可能になっている、というべきかもしれない)。ごく大雑把にみればこんな感じの描像だろう。アニメ的な機械も、ここで生じた領域の一つといえるだろう。
●これは一種のシステム論であろう。ここで「人間」は、システムが自分自身の書き換えを可能にするためにその内に孕む、分散された、予測不能な「揺らぎ」のような位置に置かれていると言えるのではないか。このような描像では、「魂」や「精神」をもっているのは、様々な技術と人間とを多面的に関係づける(積分=統合を行う)抽象的な力としての「機械」の方で(ほぼ、機械=魂ではないか)、そこで人間は、言ってみればサイコロのような役割しかもたないと、意地悪な言い方をすることも可能である(「遅滞」とは、要するに「原理的な予測不能性(因果的決定論を逃れるランダム性)」ということだ)。
古い紋切り型で、「人間は結局、システムの歯車に過ぎないのではないか」という言い方があるが、ここでは、「人間は、システム内のサイコロである」という風にも言える。勿論、サイコロのもつ原理的な予測不能性がなければ、この世界に突然発生=他者創出(ヘテロジェネシス)は可能ではないという意味で、サイコロの存在はシステムにおいて不可欠で、きわめて重要ではある。しかしわれわれは、人間が、一人一人が異なる原理で作動する(そして、技術的な対象との相互作用によって、その原理そのものを変化させもする)「ランダム発生装置」であるという描像を、受け入れることができるだろうか。
●つまり、そのような描像を受け入れる時に「このわたし」をどうするのか、ということが問題となる。「わたしたちは〈このわたし〉をどこに置くのか」という西川アサキ的な問いが必然的に浮上する。「このわたし」は「クオリア」をもち、死への恐怖をもつ。
ここで精神分析の理論が「強い」のは、それが非常にややこしくてねじくれたものであったとしても「主体化」を巡る理論だからではないか。その複雑さや難解さは、「このわたし」の重さを受け止めるものとなる。とはいえ、本当にそれでいいのかという疑問もまた、強くある。
そんなことを考えていて、晩年のフーコーの講義録の本を買ってしまった(高いよ!)。
●以下の引用は、「アニメ・マシーン」第21章より。
《力学的なシステム内でのパターンの創発についての議論の中で、アトラクターとコーペレーターという観点からパターンを語る理論家たちがいる。アトラクターとは、力学的なシステムがそれに向かって発展してゆく集合のことである。(…)コーペレーターは、アトラクターに向かう発展に関与する機能である。多平面的なアニメ・イメージの平板化と結びついた分配的な領域という文脈では、萌え要素がアトラクターとして機能する。アトラクターは、諸要素が脱階層化されて分配される領土上で顕著となる萌え要素である。とすれば、相互作用の担い手であるオタクはコーペレーターである。情動的な環状回路や循環経路がコーペレーターとアトラクター、すなわち人を惹きつける萌え要素とオタクとをつなぐ。コーペレーター(あるいはインターアクター)は、その領域内にある、単なるもう一つの要素という以上のものであり、一つの視る位置以下のものである。それは、安定した視る位置や主体ではない。コーペレーターは、アトラクターとの関係で諸要素を統合し差異化する機能である。オタク・コーペレーターの小さな世界や小さな物語は、領域内に分配され密封された諸要素の相互作用を通じて創発する複雑なパターンなのだ。》
《(…)分配的な領域は、主体的な非対称性(主体/対象の非対称性)ではなく、情動的な非対称性を生み出すのだ。これは、フェリックス・ガタリが構造と対比して機械と呼ぶものに非常によく似ている。それは、自己産出的というより突然発生=他者創出的なものである。要するに分配的な領域は、機械、情動的な非対称性、他者産出を暗に含み、これらは、構造、主体的な非対称性、自己産出と対立するのではなく、それらに存在論的に先行している。構造や主体的な非対称性は、この領域に定着することになるかもしれない。だが、それらは単純に外からやってくるものではい。それらは単に領域に押しつけられるものではない。むしろ、領域に定着するために、構造は変形し変異しなければならないのだ。その結果、自らを開放して領域に適応することになる。構造は、たとえ一時的ではあっても、機械のように、他者産出的になる。だからこそガタリは、他の諸機械を自分自身に折りたたむ作用として突然発生=他者創出を語るのだ。》
《この点でもまた、『ちょびっツ』が興味深い。それは、この作品が、セクシュアリティについて一般に受け入れられた非対称性を徹底的に無効にするからではなく(この作品はジェンダー描写に関しては、多くの点できわめて保守的である)、情動的な機械と主体的な構造との出会いを刻印しているからである。ガイノイドの身体というレベルで、前に引き合いに出した幽霊と症候との緊張関係は、この出会いの現れである。》