●引用、メモ。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)から。
●権力や不平等は結果であって原因ではない。
《「ANTは権力や支配をどこにやってしまったのか」と詰問する人がいるかもしれない。しかし、私たちは、そうした非対称性を説明したいと望んでいるからこそ、非対称という語をただ繰り返して満足したくはないのである(…)。ここでも、原因と結果を混同したくないし、説明する側と説明される側とを混同したくない。したがって、とりわけ重要になるのが、こう主張することである。権力は、社会と同じく、あるプロセスの最終結果なのであって、おのずから説明をもたらしてくれる貯水池、備蓄庫、資本なのではない。権力や支配は、生み出され、作り上げられ、組み立てられなければならないものだ。》
《いわく、社会は不平等であり階層的である。いわく、社会は一部の人びとを不当に抑えつけている。いわく、社会にはすべて慣性がある。支配されることで身体や精神が押しつぶされると述べることと、以上の階層、非対称、慣性、権力、残虐な仕打ちが社会的なものでできていると結論することは、まったく別の話である。(…)はなはだしい資源の非対称性があるからといって、それが非対称的な社会的関係によって生み出されていることにはならない。資源の非対称性があることは、真逆の結論をもたらす---不平等な関係が生み出されざるをえないとすれば、それは社会的なアクター以外のアクターが関与していることの証左である。》
●権力が社会的な紐帯だけに頼らざるをえないならば、長期にわたって行使されることはない
《(…)社会的というのは、ある特定の領域の呼び名にされており、わら、泥、糸、木、鋼などのような一種類の材料の呼び名にされている。だいたいの場合、何かしら想像上のスーパーマーケットに入って、「社会的な紐帯」が詰め込まれた棚を指させるし、別の通路には、「物質的」「生物学的」「精神的」「経済的」な結びつきが取りそろえられている。ANTの場合、もうすでにおわかりのように、社会的という語に違った定義を与えている。つまり、実在する領域や特定の対象を指し示すものではなく、むしろ、移動、転置、変換、翻訳、編入の呼び名なのである。事物同士のつながりは、通常の意味での社会的なものであるとはまったく認識できず、事物が配置し直される一時に限って社会的なものと認識できる。(…)ANTにとって、社会的という語は、それまで「連関していなかった」力同士の束の間の連関を指すものなのである。》
《社会的な力という概念を解体して、束の間の相互作用ないし新たな連関で置き換えることには、大きな利点がある。それは、社会という合成概念のなかで、その持続性に関わるものと、その実質に関わるものとが区別できるようになるということだ。確かに、持続的な紐帯は存在していよう、しかし、だからといって、そうした紐帯が社会的な材料でできていることにはならない---真逆である。》
《権力が社会的な紐帯だけに頼らざるをえないならば、長期にわたって行使されることはない。(…)非対称性を維持すること、権力関係を確固たるものにして持続させること、不平等を強いることが非常に困難であるからこそ、弱くてすぐに朽ちてしまう紐帯を他の種類の結合へと移し替えるべく、実に多くの仕事が常につぎ込まれているのである。》
《権力は、眠らない事物と壊れないつながりを通して行使されてはじめて、さらに長く続き、さらに遠く広がることになる---そして、そうした離れ技を成し遂げるためには、社会契約よりもはるかに多くの道具が考え出されなければならない。》
《持続的に広がる力が社会的な紐帯にあるのかを疑い始めれば、すぐにモノの果たす役割が中心に見えてくるだろう。逆に、社会的なまとまりが「社会的な力」に支えられて存続できると考えるやいなや、モノが視界から消える。》
●何よりもまず、どんな人やモノが行為に参与しているのかということを検討しなければならない
《「志向的/意味的」で「意味に満ちた」人間が行うことに行為がアプリオリに限定されるならば、ハンマー、かご、ドアの鍵、猫、敷物、マグカップ、リスト、タグなどがいかに行為しうるのかを見定めるのは難しい。モノは、「物質的」で「因果的」な関係の領域に存在するとされて、「反省的/再帰的」で「象徴的」な社会関係の領域には存在しないということになりかねない。対照的に、アクターとエージェンシーをめぐる論争から始めるという決意を貫くのであれば、差異を作り出すことで事態を変える事物はすべてアクターである》。
《もしも、真顔になって、ハンマーを使って/使わずに釘を打つことは、どちらもまったく同じ活動であると主張し、ヤカンを使って/使わずにお湯を湧かすことも、かごを使って/使わずに食料品をとってくることも、服を着て/着ずに街路を歩くことも、(…)やはり、どちらもまったく同じ活動であり、そんなありふれた道具を見せられても、自分の課題を理解する上で「重要なことは何も」変わらないと主張できるのであれば、すぐにでも、(…)この月並みの土地からでていけばよい。他のすべての社会的な構成子にとっては、実際に試してみれば差があり、したがって、以上の道具は、私たちの定義ではアクターであり、もっと正確に言えば、いつ形象化されてもおかしくない行為の進行への参与子である。》
《(…)モノがアクターであるということが意味しているのは、完全な原因として存在していることとまったく存在していないことのあいだに、数々の形而上学的な陰影が存在するであろうということである。「人間の行為の背景」として働いたり「規定」したりする他にも、事物は、権限を与えたり、許可したり、可能性を与えたり、促したり、容認したり、提案したり、影響を与えたり、妨げたり、できるようにしたり、禁じたりしている。ANTは、モノが人間のアクターに「代わって」あれこれしていると主張する机上の空論ではない。(…)何よりもまず、どんな人やモノが行為に参与しているのかということを徹底的に検討しなければ、社会的なものの科学は始まりはしない》。
●モノはところどころでしか痕跡を残さない(共約可能性と共約不可能性のあいだで)
《確かに、あるレンガが別のレンガに及ぼす力、軸を中心とした車輪の回転、塊に対する梃子の効果、滑車における力の反転、リンへの着火といった作用のありようはいずれも、自転車に乗っている人に「停止」標識が及ぼす力や、個々人の心に対する群衆の力とは明らかに異なるカテゴリーに属するように見える。だから、物質的な存在と社会的な存在を二つの別々の棚に置くのはまったく理に適っているように見える。しかし、ものの数分のうちに、次のように、どんな人間の行為も物質とひとつに紡ぎ合わさる可能性を認めるやいなや、理に適ってはいるが、馬鹿げたものになる。たとえば、レンガを積めという大声の命令、セメントと水の化学的な結合、手を動かすことでロープを伝う滑車の力、同僚がくれたタバコに火をつけるためにマッチを擦るなどである。ここで、物質的なものと社会的なものという一見理に適った区分が、まさに、ある集合的な行為を可能にするものの探求をすっかり混乱させてしまうのだ。もちろん、ここでの集合的という語は、均質な社会的な力によって持ち込まれる行為を意味するものではなく、逆に、相異なるためにひとつに紡ぎ合わせられる種々の力を集める行為を意味するものである。したがって、ここからは「集合体」という語を「社会」の代わりに使いたい。》
《社会的な慣性と自然界の重力は結びつかないように見えるかもしれないが、しかし、労働者たちの一団がレンガの壁を築いている時には、両者は明らかに混ざり合っている---壁が完成した後ではじめて両者は再び別々になる。(…)ANTはこうはっきりと述べる。「理に適った」社会学者よりも少しでも社会的な紐帯について実在論的(リアリスティック)でありたいならば、受け入れるべきことがある。それは、どんな行為の進行であれ、その継続性が人と人との結びつきによって成り立つことはまれであり(…)、モノとモノの結びつきによって成り立つこともまれであり、おそらくは両者がジグザグになって成り立っているということだ。》
《私たちにとって、対称的であるというのは、人間の志向的/意図的な行為と、因果関係からなる物質世界のあいだにまがい物の非対称性をアプリオリに押しつけないということであって、それ以上の意味はない。》
《ここでのモノへの関心は、「主観的」な言語、象徴、価値、感情に対置される「客観的」な物質に与えられる特権とは無関係である。》
《(…)ANTによる研究は、諸々の行為/作用の様態の連続性と非連続性の両方に取り組まなければならない。種々雑多な諸々の存在の滑らかな連続性に注意を向けるとともに、結局はいつまでも共約不可能なままでいる諸々の参与子の完全な非連続性に注意を向けられるようになる必要がある。分析者にとって、流動的な社会的なものは、連続的で実体的な存在ではなく、むしろ、その痕跡にわずかに姿を見せるものであり、言わば、検出器に残される軌道の束によって物理的な粒子が把握できるのと同じである。》
《(…)社会的な紐帯と共約可能とされる限りにおいて非人間を報告に入れなければならないし、そのすぐ後には、非人間の根本的な共約不可能性を受け入れなければならない。》