●「アニメ・マシーン」の、第三部との関連で、ずいぶんと久しぶりにジジェクの本をパラパラ読みなおしていた。精神分析の理論は、やはりすごく「強い」ものなのだなあと思った。
●「アニメ・マシーン」では、日本におけるオタク文化への言説がしばしば文化的特殊性に立脚してしまうことが批判されている。例えば、オタク的表象を前近代的な日本文化(主に江戸文化)と結びつけ、それと西洋近代におけるデカルト的主体(一点透視図法的視点)との違いを強調しつつ、ポストモダン的な現在の状況と結びつける、というような。その時、西洋と日本の、モダンとポストモダンの断絶が強調され、「日本」はモダンとは無関係の場所に置かれる。しかしこの本では、日本と西洋の、モダンとポストモダンとの連続性が指摘される。要するに、モダンはポストモダンの端緒である、というようなことだ。とはいえ、ポストモダンとは、モダンがもう「後戻りできない」ところにまで来てしまったという状況なのだ、とする。モダンとポストモダンの間は、連続的であり、しかし両者は異質でもある。モダンとの、連続性と異質性の両者においてアニメを考えようとするところが面白い。というか、ぼくにとって勇気が出る。
《スーパーフラット論は、幾何学的遠近法を西洋の近代的な主体性に結びつける理論が近代論の一つにすぎないことを忘れている。マーティン・ジェイは、近代の合理的で道具的な主体と遠近法とのつながりを一貫して強調しているが、その彼も、近代の視覚体制が他にもいくつかあることを認めている。(…)ミシェル・フーコーはデカルト的な主体を、近代よりもむしろ古典主義時代と結びつけている。フーコーは、近代的な規律訓練の出現を規定するものは、ルネサンス時代の知の普遍的な格子の崩壊であると論じている。ジョナサン・クレーリーは、視覚の歴史という領域でフーコーのアプローチに立脚しつつ、一九世紀の視覚理論が、幾何学遠近法とカメラ・オブスキュラと結びついていた古典的なデカルト的主体を放棄したと見ている。(…)メディア理論家のフリードリッヒ・キットラーは、近代のメディア・ネットワークは、主体の超越性の強調によってではなく、科学的な器具や、記録と観察のテクノロジーに比べて人間の知覚は誤りやすいという感覚によって特徴づけられると論じている。要するに、これらの理論家たちは、その相違にも関わらず、近代の視覚体制とメディア・ネットワークが、普遍的もしくは超越的な主体(一点透視図法の、固定した視る位置のような形で)の産出を通じて機能しているわけではないという点で、意見が一致しているのである。》
これらのこと(西洋近代の非遠近法的性質)は、いわゆる「近代絵画」をちらっと眺めるだけでも充分に納得できるのではないか。マネ、ポスト印象派、セザンヌ、ピカソ、マティス、あるいはシュルレアリスム等は、あきらかに、奥行き(先験的形式としての空間)よりも、バラバラに作用する複数の平面の重なりやズレ(相対的で構成的な空間)によって作品を成立させている。とはいえ、遠近法を完全に排除しているのでもない(特にセザンヌにおいて「深さ」は重要だ)。これらの絵画は(たんに日本趣味というレベルではないところで)一部、江戸時代の絵画との共振をみせつつも、それ以上にアニメとの形式上の親近性をもつように思われる(同時に、決定的に違うというところも勿論多くある)。これらの絵画は、当然、近代的なテクノロジーとの緊張関係のなかから生まれたものという点で、アニメとのつながりも認められるのではないか。
《そこ(スーパーフラット論)で抜け落ちているのは、日本の近代の可能性であり、それに伴って生じる主体性、規律化、権力についての問いである。》
●ここで面白いのは、スーパーフラット的平面や、フル・リミテッド・アニメーションにあらわれる多平面性の「構造」について、一点透視図法に対する「組立分解図」という比喩を提示しているところだ。これは、プラモデルや組み立て式家具の「組み立て説明図」のようなもので、それぞれの部品同士の関係が、階層化されずに等価なままレイヤー化されている。だから、遠近法的な空間の秩序によって配列されてはいないが、しかし、合理的、科学的に、つまり近代的、道具的に配置されたものの構造を示す。フラットでありつつ、構造化されてもいる。なによりそれは、ものを分解する図(分岐)であり、同時に組み立てる図(統合)でもある。そして、この分解組立図という比喩が、第三部でマンガ(マンガにおける、「運動イメージ」の解体と統合)を検討するところで、すごく効いてくる。
●だけど、いわばシステム論的に機械の作動を思考するこのような方向性に対して最も強力に抵抗する主体論として、精神分析の理論が考えられる。
精神分析的主体は、単純化して言えば、(超越的な視点―他者によってではなく)「死んだ父」という超越性によって支えられている。つまり、「父(他者)が既に死んでいるということは皆知っているのだが、その事実を死んだ父(他者)に気付かれないようにするために、あたかも父(他者)が生きていると信じているかのように振る舞う」ことによってようやく主体―視点が成立する、というような理屈だ。このような、不在であることによって作用する消失点を、アニメ的(多平面的)な思考によって相対化するというのが、第三部の課題であろう。
アニメ機械・マンガ機械によって創出されるセクシュアリティ(オタク男性と人工少女)についての考察である第三部は、例えば、ジジェクによる、「女は男の症候である」というラカン的な標語を巡る次の文章のような理論を、どう相対化できるのかというところが読みどころとなろう。(以下、『汝の症候を楽しめ』から引用)
《(…)ラカンが最晩年の著作やセミネールで述べていること(…)にしたがって症候を捉えるとしたら、すなわち、主体にその存在論的整合性そのものを与え、主体が享楽との基本的・本質的関係を築くのを可能にする、ある特定の意味をもった形成物として捉えるならば、関係全体がひっくり返る。もし症候が消えると、主体の足下の地盤が崩れ、主体は崩壊する。この意味で、「女は男の症候である」は、男は彼の症候としての女を通してのみ存在するという意味になる。主体の存在論的整合性はすべて症候にしがみついており、症候からぶらさがっていて、症候の中に「外在化」されている。いいかえると、男は文字通り「外に―ある(ex-sists)」。男の存在全体が「そこに」、つまり女の中に、あるのだ。いっぽう、女は存在しない。女は「中にいる―主張する(insist)」。だから、女は男を通してのみあらわれるわけではない。女のなかには何か、男との関係、男根のシニィアンへの言及を逃れるものがあり、周知のとおり、ラカンはこの過剰を「すべて―ではない」女性的享楽の概念によって捉えようとした。(…)「それ自身として」、つまり男との関係の外で、捉えられた女は死の欲動を具現化している。その死の欲動は、いっさい妥協しない執着、つまり「……に関して認めない」姿勢の、根源的で最も基本的な倫理的態度である。したがって女はもはや男性的「能動性」と対照される「受動的」なものとは考えられない。行為そのものが、その最も根源的な次元で、「女性的」なのである。》
《男は「能動的」であり、行為の正しい次元から逃げるために容赦ない行動のなかへと逃げ込む。男が女から逃げること(たとえばフィルム・ノアールで、ハードボイルド的探偵が運命の女から逃げること)は、実際には、根源的倫理的立場としての死の欲動からの退却である。》
●第三部では、ここで語られているような、性的な関係の非対称性を認めながら(つまり、フラットなデータベース型消費という考えが批判されている)、その非対称性が性別によって固定されている精神分析的な体制から逃れ、アトラクターとコーベレーターからなるシステムの作動によって、新たな非対称性が生産(創出)されるようなモデルとして、『ちょびっツ』という作品が考察されている。このような、非対称性の創出が、自己産出的(オート・ポイエティック)に対する、突然発生=他者創出的(ヘテロジェネティック)と言われる。