2020-09-29

●つづき。『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(久保明教)の「おわりに」より、引用、メモ。

《本書では、一九六〇~二〇一〇年代における家庭料理をめぐる諸関係の変遷を、モダン/ポストモダン/ノンモダンという大まかな区分に沿って追跡してきた。ただし、それは、先行する時期の家庭料理のあり方が後続する時期のそれによって完全に取って代わられるような直線的な変化の軌跡ではない。》

《互いに異なる家庭料理のありかたが、齟齬や摩擦を含みながら共立する。そこには常に部分的でねじれた関係が生じている。江上トミや土井勝らが確立した定型的な家庭料理から小林カツ代栗原はるみによるその脱構築に至る道筋は、食の簡易化のさらなる進展にも見えるだろう。だが、トミや勝のレシピに多く記載されている「化学調味料」の表記は、「手作り」と「手抜き」の対立を無効化するカツ代やはるみのレシピからは消えている。その一方、彼女たちが提案したより手軽で美味しく華やかな家庭料理が広まることによって、本書冒頭で言及した江上トミの「小あじのムニエル」のような美味しくても地味で手間のかかる料理が食卓に供され難くなってきたとも考えられる。》

《あるいは、定型から脱構築に至る流れの傍らには、第一章で検討した『すてきな奥さん』の冷凍食品加工料理がある。「手作り料理」の定義不能性を逆手にとったその営為は、マート読者による「二次創作」やTV番組『お願い! ランキング』(二〇〇九~)で有名になった「ちょい足しレシピ」に引き継がれていく。スーパーやコンビニの加工済み食品少しアレンジを加えることで食事をイベント化する。その身振りは、勝の「一手加わった」料理やカツ代の「知恵や工夫」に接近しながらすれ違っていく。》

《前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』(二〇一九年、月曜社)において、著者は、世界を外側から捉える近代的な対応説(世界と言説の正確な対応に知の根拠を求める発想)でも、その内在性を暴露することで知の脱構築を目指すポストモダンなフィルター付き対応説(世界と言説の対応に社会的・文化的なフィルターの介在を措定する発想)でもないものとして、世界に内在する諸関係から一時的に世界に外在する知が産出されるとみなすノンモダニズムの発想を提示した。だが、それは単に新たな学問的発想として提示されたわけではない。むしろ、ノンモダニズムとは、私たちがすでに部分的に足を踏み入れつつあるノンモダンな暮らしに対応する学問的な知のあり方である。》

《だからこそ、本書では、家庭料理をめぐるネットワークを内在的に追跡し、時代区分と暫定的に結びついた外在的な認識(モダン/ポストモダン/ノンモダンな家庭料理のありかた)を浮かびあがらせながら、それらの齟齬を伴う共立を駆動する諸関係を追跡するという構成をとった。》

《異なる時代に根ざしながらも現在も健在である様々な家庭料理のありかたは、互いに互いを攻撃しうる論理と倫理を備えている。筆者は、そのいずれかに全面的に賛同することはないが、それらを家庭料理に込められた「思想」や「イデオロギー」として外側から評論したわけでもない。むしろ。筆者自身にとって個々の家庭料理のありかたが肯定的にも否定的にも見えてくる局面を接続していくことで、それらの複合的な争いを浮かび上がらせ、家庭料理をめぐる戦線の広がりをたどることを試みてきた。》

《とはいえ本書は、家庭料理に関わる膨大な営みのうち部分的なつながりを追ったものにすぎない。本文で言及されなかった様々な事柄を想起する読者も多いだろう。だが、その部分的つながりは、他の(既知あるいは未知の)諸関係との部分的つながりを惹起させるように配置されている。》

《(註より)本書の記述から惹起されるものとして第一に挙げられるのはジェンダー論的な諸関係だろう。家庭料理の変遷が、夫と妻と子を機軸とする近代核家族や男女の役割分担(性分業)をめぐる社会的変化と結びついていることは間違いない。だが、本書では後者への言及を抑えることで、前者を後者に還元して分析することを避けている。むしろ、本文で記述した「おふくろの味」という伝統の創造、『すてきな奥さん』の冷凍食品加工料理、『マート』読者の「ママ友グループ」における協働、『一汁一菜でよいという提案』をめぐる読者の反応などが示しているのは、近代核家族の弱体化や性分業平等化の進展(あるいは停滞)といった既存の図式では把握しきれない、ジェンダー論的な諸関係とその他の諸関係との齟齬と矛盾を伴う絡まりあいである。》