●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)、「あとがき」より。
●生成について
《なお、前著と本書に登場する「生成」という言葉には、特にポジティブな意味も特にネガティブな意味も込められていない。》
《特にポジティブではない、とは「異質な世界と関わることによって前もって予想もできない仕方で自らを変容させていくプロセス」それ自体を称揚し特権視するつもりは全くないということである。むしろ、実践においてありふれた(だが常に忘却される)契機として位置づけ直そうとしている。》
《特にネガティブではない、とは前もって理解も予測もできないとはいえ私たちは常に生成のプロセスに携わっており、間接的な仕方ではあれ、それについて語り考えることは可能だ、ということである。本書の裏面の主題は、非還元、媒介/仲介、アクターネットワーク、存在様態といったトピックからなるラトゥールの一連の議論を、生成を生きながら生成を思考しうる方法論の一つとして提示することであった。生成の只中でそれを捉えるためには、近代的な「人間」という形象から私たち自身を引きはがす様々な手だてが必要となる。》
●数学、物理学の扱いについて
《(春日直樹による)「自然と社会の分割を乗り越える」という魅力的なキャッチフレーズの下に、数学や物理学といった自然科学の中核とされる営為の複雑性が簡単に切り捨てられていないか、という批判的な視座から展開された議論は、著者にとっていずれ応答せざるをえない宿題となっている。》
《ラトゥールが「科学」の例として検討する事象の大半は、化学や土壌学といった具体的なモノとの関わりが明確な営為であり、数学や物理学にはあまり触れられない。ブルアが論じたように、数学を人為的な規約の束として捉えることは難しくない。だが、数学という規約的な記号操作がなぜ世界の物理学的な現象と「対応」するのかという問いに対して、ラトゥールの議論はどこまで有効な応答を提示できるだろうか? アクターネットワークや存在様態という概念に基づいて展開されてきた存在の関係論的理解は、認識や論理や言語をめぐる諸問題を回避することで放置していないだろうか? 》
●真面目すぎてはいけない
《序論で述べたようにラトゥールに対して「真面目すぎてはいけない」のは、彼の議論を正面から受けとめる限り不可避的な帰結である。例えば「私たちはいまだかつて近代的であったことはない」という言明は、この世界における私たちの状態に対応する正確な表象として提示されていない。むしろ、この言明は、「私たちは近代人である」という常識的な言明が妥当性を失うような仕方で私たちが内在するネットワークが組み替えられていく運動を媒介するものとして導入されている。対応説の否定に基づく学問的言明の妥当性が、世界との対応によって保証されないのは当然である。それは新たな暫定的対応を喚起しつつ進められる諸関係の組み替えにおいて妥当性を得るのだ。》
《ラトゥールは、対応を喚起するコンスタティブな発話と関係を組み替えるパフォーマティブな発話の間を往復しながら、既存の語り口を意外な事例や語彙と結びつけて不安定化させ、諸概念のつながりを拡張し、組み替えていく。新たな関係性において新たな対象と表象の対応が可能なるとしても、より重要なのは組み替えの運動それ自体である。》