●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明数)、第二章「科学とは何か」より。このあたり、ラトゥールがもっとも誤解されがちなところだろうと思う。《本章では、科学的実践を「自然」にも「社会」にも還元せずに捉える試みが(…)検討される。》
●短いネットワーク/長いネットワーク、より柔らかい事実/より固い事実
《「一日一個のりんごは医者を遠ざける」と母親は言いながら赤いりんごを息子に手渡した。息子は自信に満ちた調子でこう答えた。「ママ、国立衛生研究所の三つの研究では、全世代にわたる四五八人のアメリカ人の事例において、医者に来てもらう回数に有意な減少はないことが示された。だから、このりんごは食べないよ。」》
《一見すると、この会話は母親の非科学的発想と息子の科学的発想のズレを示しているように思える。だが、ラトゥールはこの二つの発言が異なる思考や精神によって生じているとは考えない。この会話をちぐはぐなものにしているのは、思考方法の違いではなく、いかなる要素がいかに結びつけられているかという関係性の違いである。》
《ラトゥールは母親の発言を「より柔らかい事実」、息子の発言を「より固い事実」と呼ぶ。前者において、発言は多数の人々によって歪曲されながら伝わるがそれは問題にされず(「医者を遠ざける」の含意は様々に異なりうるが、その差異は気にされない)、誰が最初の発言者かも確定されないまま伝わっていく(大半の諺の起源は不明である)。後者において、発言は歪曲されることなく伝わり、もとの発言者が確定され(国立衛生研究所)、過去の主張(既存の研究結果)と比較され、両者の差異は統一された基準によって測定される。》
《「より固い事実」はより多くのアクターを動員する。この例では、国立衛生研究所の研究に従事した人々、事例として選ばれた四五八人のアメリカ人、彼らが摂取した膨大な食材とそのデータ、彼らを診察する医者たちといった、人間に限定されない膨大なアクターを緊密に結びつけ、データの取得や整理において諸要素ができるだけ同じ形の関係を結ぶように隊列が整えられることによって、「有意な減少はない」という一つの歪曲されない事実が生み出される。》
《科学的知識は、より多数のアクターをより緊密により近似した形で結びつける、より長いネットワークを指向する運動によって支えられている。一方、母親の発言は長いネットワークを志向しない、相対的により短いネットワークによって支えられている。》
《だから、もし母親が息子の主張を正面から否定しようとすれば、以下のような膨大な努力が必要となる。》
《彼女はまず国立衛生研究所を訪問し、三つの研究の代表者に面会を求め、データの適切な取得と分析がなされているのかを詰問する。だが、研究者たちの弁解は専門用語だらけで彼女に判別できない。そこで断念しなければ、彼女は大学に入り直して医学と化学と栄養学と統計学を学び、自ら研究者としてキャリアを歩みながら調査計画をたて(…)だが、彼女の主張は同じ分野の専門家によって批判され、いくつかの検査実験に基づいて「一日一個のりんご」が健康に良い効果をもたらすという証拠はなく、彼女の主張は「疑似科学」だという主張が広まる。反論に対する再反論を用意するために(…)。》
《科学と非科学の区別を自明視する人々にとって、「より固い/柔らかい事実」や「長い/短いネットワーク」というラトゥールの用語法は理解しにくいものだろう。両者を連続的に捉えているのか非連続的に捉えているのかはっきりしないからだ。だが、実際にはその両方である。原理的には連続的だが、実践を通じて非連続性が生みだされうる。》
《個々の存在者はそれ自体において別の何かに還元されることはないが、他の存在者と関係を結ぶなかで暫定的に別の何かへの還元が可能になる。(…)言明の妥当性はネットワークの効果であり、人間もまたネットワークに内在している。外在的に見える知識を産出するためには、上記の例による科学者となった母親のように、無数の媒介項と関係を結びながら次第に仲介項を増やしていく長大なプロセスが必要になるのである。》
●アマゾンの森林に関する調査研究(森林がサヴァンナに向けて前進しているのか、サヴァンナが前進しているのか、の調査)、についてのラトゥールの調査
《(…)ラトゥールは何をしようとしているのだろうか。それはまず、世界と対応する言明こそが真であるという対応説的発想が科学者の具体的な実践に対していかに的外れかを示すことである。》
《アマゾンに赴いた科学者達が行っていたのは、世界を虚心坦懐に観察してそれと一致する言葉を探すことではない。彼らの活動を通じて、①土壌は、②ペドフィル等によって区画化された幾何学的大地→③土壌比較器に納められた土壌の配列→④図表(土壌の断面図)→⑤報告書の文章という一連の変換をうける。同時に、この変換は常に逆方向にもなされるように維持される。報告書の文章は、これらの変換の跡を逆にたどってもとの土壌へ戻りうるものでなければならず、これらの結びつきをどこかで---ペドフィルの糸がもつれてカウンターが誤作動したり、比較器のボール紙が破れて土塊が混じったりして---断たれれば、その妥当性は損なわれる。》
《土壌から報告書に至る各段階は後続する段階によって示される事物であり、先行する段階を示す記号となっている。言語から世界へ指示が一方的に与えられるのではなく、諸アクター間を指示が循環しているのだ。》
《このとき、各アクターは固有の形式(形相)と物質性(質量)を持つが、それらの性質は常に他のアクターとの関係に規定される。例えば、土壌比較器の配列(③)は、ボール紙や木製の枠といったその物質性において区画化された大地(②)の形式を受け取り、それによって土塊の升目状の配列という自らに固有の形式を実現する。その形式は、さらに方眼紙と鉛筆の線からなる物質性をもった図表(④)に引き受けられることで、土壌の断面図という新たな形式へと変換される。言い換えれば、ある段階のアクターは先行する段階を質量とする形相として、後続する段階のアクターを形相とする質量として働くようになるわけだが、そこには常に変換に由来する非連続性(断絶)が伴う。》
《このように、各アクターの形式と物質性は他のアクターとの関係を通じて変形され、それらが入念に調整されることで一連の変換、「循環する指示(Circulating Reference)が形成される。世界と言語が正確に対応するという一般的で規範的な見解は、循環する指示が安定的に形成され、仲介項に変換されたあらゆる媒介項を省略できるようになった時にのみ暫定的に妥当なものとなる。》
《「個々の言語体系によって異なる仕方で経験世界が分節化される」というソシュール派言語学の定式とは異なり、言語が世界を分節化する以前に、世界は様々な分節化の連鎖が生じている。(…)言葉(報告書の文章)が世界について何かを表象しうるのは、それが世界=アクターネットワークの中に適切な位置を占めることに成功した限りにおいて、つまり、自らに固有の形式と物質性において非言語的な分節化の連鎖に連なる限りにおいてである。》
《循環する指示を構成する内在的な関係性が、その一時的な効果として外在的な知識(報告書と土壌の対応)を産出する。》
●パストゥールによる乳酸発酵素の発見、について。
《(パストゥールの論文により…)アクターXは識別不可能な存在(段階1)から発酵をめぐる諸作用の起源(段階5)まで、その姿を変化させてきた。この過程は、新たなアクター(乳酸発酵素)の働きが他の諸アクターをいかに変化させうるのかを明らかにする一連の「試行」(Trial)を経て、そのアクターがネットワークの一員となる(=実在するようになる)過程に他ならない。》
《ラトゥールによれば、パストゥールは同時に三つの試行に従事している。第一に、上記の論文を通じて酵母が発酵の単なる副産物ではなくその主要因であるという言説を流通させること、第二に、実験室の様々な非言語的要素を動員して発酵酵母が適切に豊かなパフォーマンスを行う状況を作り出すこと、第三に、アカデミーの同僚たちの検証によって第一の言説と第二の状況の間に必然的な結びつきがあることが明らかにされることである。全ての試行が成功すると、第一の言説はパストゥールの作り話ではなくなり、その背後に実在が確かに存在するようになる。言説と実体の対応を産出する「循環する指示」が確立されることによって、パストゥールは発酵酵母が生き物であることを証明できるようになり、それは醸造酵母とは異なる特定の発酵の引き金を引く実体となる》。
《発酵はパストゥールによって制作され、だからこそ、それはパストゥールの活動から自律した存在として現れる。》
《(…)パストゥールというアクターがまず行っているのは、(A)〈アクターXの周囲に様々なアクターを配置し、それらがこうむる変化を特定していくことでXの存在を際だたせること〉である。この段階では、Xの有様は他のアクターとの関係に大きく依存している。パストゥールが諸アクターを組織することを通じてXの性質や働きが形成されていくのであるから、確かに彼はアクターX=乳酸発酵素を「制作」している。》
《しかし、彼の活動を通じてXが他のアクターと関係づけられていくことは、(B)〈他のアクターの有様が乳酸発酵素との関係に次第に依存するようになっていくこと〉でもある。発酵をめぐる多くの要素(培地の性質、溶液の科学的組成、生化学、チーズの製造法など)が乳酸発酵素の存在をあてにして定義され変形されるようになるにしたがって、乳酸発酵素の「真実らしさ」が強まっていく。パストゥールもまた、「乳酸発酵素の発見者」としての自らの地位や名声を、発酵素の働きに大きく依存している。この段階に至れば、あるアクターがいかに逸脱的に振る舞おうと乳酸発酵素の有様を大きく変えることはなく、逆に発酵素を軸に形成されてきた諸関係に適合的なかたちで自らを変えざるをえない。こうして、乳酸発酵素は他のアクターの働きかけに対して相対的に独立した実体(「実在」)となる。》
《パストゥールによる制作の過程(A)と乳酸発酵素が実在していく過程(B)は、個別の過程ではない。制作がより入念に行われるほど、実在はより確かなものとなる。》
《(…)「パストゥールによって乳酸発酵素が発見された」という明言は、乳酸発酵素というアクターをあてにして一九世紀以来生み出されてきた無数の実践、階層的に拡大してきたネットワークの働きによってのみ正当化され、重みづけされる。(…)しかし、ネットワークが今後著しく変化していけば、乳酸発酵素が自然の事実ではなくなり、パストゥールの業績は明白な誤認や近似的な発見に修正され、発酵という現象が全く異なる仕方で説明されるようになることも十分にありうる。》
《彼(パストゥール)が実験室内外の諸アクターと互いに媒介項として関わりあう中で、次第に多数の媒介項(未規定の入力-出力関係)が少数の仲介項(一義的な入力-出力関係)に変換されていき、彼が語る「乳酸発酵素」と新らたな物質の対応を産出する指示の循環が形成されることで、外在的な知識が生みだされる。》
●パストゥール以前/以後、接ぎ木、外在は内在の効果にすぎない
《(…)ラトゥールは、ある微生物がパストゥールによって無から創造されたとか、パストゥールや関連する諸集団の社会的合意に基づいて存在することにされたと主張しているわけではない。パストゥールがいかに雄弁に乳酸発酵素の実在を語っても、培地や溶液やアクターXが特定の仕方で働いてくれなければ、彼の言葉は何の説得力も持たない。さらに、パストゥールの制作以前に何らかの微生物が存在していて、それがパストゥールの実践と関わりを持つようになったのだろうことを否定する必要もない。パストゥール以前に発酵に関わる微生物がいたと推測することになにもおかしな点はない。ここまでのラトゥールの主張は、常識的な科学観と完全に一致している。だが、常識的科学観においては、さらに、その微生物がパストゥール以降の乳酸発酵素と完全に同一のものだとみなされる。それは明らかに言いすぎだとラトゥールは言っているのである。むしろ、微生物自体にとっての微生物もパストゥールが制作に着手した一八五〇年代に変容しはじめたのであり、「バストゥールとの出会いにより、微生物に変化が生じた」のだと彼は述べている。》
《パストゥールは彼以前から存在する発酵や微生物に自らの知識や人脈や実験室の諸要素を接続するという、いうなれば「接ぎ木」によって「乳酸発酵素」と呼ばれる確固たるアクターを作りあげた。》
《接ぎ木の良し悪しは、接続される植物が互いに同型であるかではなく、接続の強度や接続された植物の繁殖や特性の変化によって判断される。科学的な知識や技術もまた、それが自然の事実と正確に対応するか否かではなく、いかに諸アクターと強く結びつき新たな関係性を増やすかによって妥当性を増し、あるいは失っているのである。》
《科学もまたテクノロジーと同様に人間と非人間の媒介項同士としての関わりの産物であり、科学は循環する指示の形成により深く関わり、テクノロジーは循環する指示の応用により深く関わる点において実践的に区別されうるにすぎない。世界=アクターネットワークに内在する私たち人間が他の異質なアクターたちと様々に関わり、膨大な媒介項が少数の仲介項に変換されるにつれて、私たち人間が世界を外側から観察/制御しているように見える状況が一時的に生みだされる。》
《だが、外在は内在の効果にすぎない。私たち人間が特定の仕方で能動的に世界を観察/制御しえるのは、人間以外の存在者からの影響を特定の仕方で受動的に被りながら私たち自身が変化している限りにおいてである。したがって、「私たち」とは原理的には人間であると同時に非人間である。》