立教大学で、ステム・メタフィジック研究会の第3回。『実在への殺到』(清水高志)をめぐって。この本、まず手に取って感じたのは思いの外コンパクトだということ。文章も明快で、伝えるべきことだけを伝えて、さくさくすすんでいく。ふわっとした印象でしかないが、一般的な人文系の書き手だと、これだけの内容ならばこの三倍くらい厚い本にしてしまいそう。とはいえ、文章は明快でも書かれていることは複雑なので(難解というより、複雑)、明快に書かれてはいても、さくさく読めるというわけではない。特に、第三部は、複雑度も凝縮度も増して、しかも、それ以前に書かれていたことが絡まり合ってに巻き取られていくので、急勾配をのぼっていく感じで読んだ。
まだ一回通読しただけなので、以下で書いていることはおそらく粗い。
●構成としては、全体の見通しをざっくりと示している第一部があって、第二部でそれが全面展開されていて、そこで一応の完結があって、そして、一部、二部で書かれたことを、さらに乗り越えて先まで進めようとする第三部がある、という感じか。
思弁的実在論(SR)やオブジェクト指向存在論(OOO)の動向を、一方でかねてからの清水さんの思考の主題であるミシェル・セールやANTと絡め、もう一方で存在論的転回以降の人類学と絡めて、互いに響き合わせ、批判し合わせ、補完し合わせながら、とても大きく、かつ詳細な絵柄が描かれていく、という本なのだけど、そう思って読んでいくと、第三章にいきなりウィリアム・ジェイムズについての章がでてくる。なぜいきなりジェイムズ?、というのは、本の構成からいってもそうだし、三章のもとになった論考が「現代思想」に載った時にも、なぜいきなり清水さんはジェイムズを読み出したのかと疑問に思ったのだけど、実際に読んでみるとこれが非常に魅力的な論考で、本の構成としても、この本を読み進めれば進めるほど、三章にジェイムズについてのこの章があることがじわじわ効いてくる。三章は、この本がこのような形になったことを決定づけた、最初の飛躍なのではないだろうか。三章での、このジャンプがなければ、第三部の怒涛の展開はなかったのではないか。三部で充分に展開される主題の、最初の提示部というのか。
だから、この本には、(1)ハーマンやメイヤスー、(2)セールやラトゥール、(3)ストラザーン、デスコラ、ヴィヴェイロス・デ・カストロ、という軸の他に、(4)ジェイムズとパース、という軸がある。そして、これらの軸が非常に複雑に(組み紐のように)絡み合いながら、最後は西田幾多郎に合流してゆく。
●この本は、清水高志という哲学者のオリジナルな思想を提示するものであると同時に、ポストモダンを乗り越えようとする本でもある。ここでポストモダン(というより、モダン-ポストモダン)は、メイヤスーの言う「強い相関主義(信仰主義)であり、エリー・デューリングの言う「ロマン主義」であり、この本では主にホーリズムと呼ばれる。なぜ、「誤配」では駄目で「交差交換」について考えなければならないのか、なぜ「旅人」では駄目で「部分的つながり」について考えなければならないのか。なぜ関係からの「切断」では駄目で「入れ子」状の脱去について考えなければならないのか。誤配も、旅人も、断絶も、ホーリズムを補完するものであり、それを破壊するものではないから、と。
●この点について、ぼくはまず、ストラザーンが再帰人類学の「旅人」を批判しているところに説得力を感じた。再帰人類学においてフィールドワーカーは、ある文化を記述する超越的な主体、その正統な代弁者という地位は得られず、「異文化」を旅してなんらかの変化を被った後に「彼自身の」社会に帰ってくるたんなる「旅人」であり、彼の書く民族誌は、そのような偶発的な旅人の視点からの、あくまで断片的で未完結な記述であることに留まる。まあ、これは典型的にモダン-ポストモダン的な、惑う、たよりない、断片化された、主体のあり様であろう。
しかしこの時、いかにも頼りない、徹底してローカルで限定されたこの旅人は、しかし諸文化を断片化し、その断片を重層化して数珠つなぎにする「唯一の媒体」であり、つまり彼自身は、諸断片を生みだすための、諸断片とは背反的なものとして要請される「唯一の」主体的存在である(部分と背反する全体である)という意味で、未だホーリズム的主体である。例えば、ある進行中の開かれたプロセスが、開かれている(終わりない)ことによって、際限なく断片を受け入れ得る可変性を持ち続け、それにより断片とは背反的な「全体」と同様のものとして機能する(ロマン主義)ように、彼自身は、諸文化とは異質なものでありつづけることで、諸文化を断片化する主体でありつづける。このような旅人と諸文化の間の関係は不可逆的で、役割が入れ替わることはない。
それに対しストラザーンは、諸文化との、相互包摂的でスケール可変的である「部分的なつながり」をつくりだす、唯一ではない多数の媒介について考える、と、この本では書かれる。
《(ストラザーンは)例えば一と二の関係について、二に一が包摂され、二が分割されることによって一が生まれると考えるところには階層性があるが、「一は[それを]二倍にした二を包摂したものであり、二は二の半分である一を分割したものである」という風に、それぞれの側から《お互いを部分として持つ関係》もまた洞察し得るというのである。》
《(…)部分と部分、部分と全体がたがいに出逢い、また互いに役割を替えつつ、お互いを部分として含み合うという状況(メログラフィックで、相互包摂的な局面)があるとすれば、さまざまな個別のもののうちにもまた、媒介的な機能が存在していなければならない。こうした意味での媒介があるとすれば、それは文字通りの個物、個別なものとしてのモノでもあろう。》
《媒体としてのモノ=道具は、複数の文化どうしを繋ぐものの、それら諸文化において異なる意味づけを与えられており、その用途や意味づけには一貫したアナロジーは成立しないのだ。---ある部族で娯楽のために吹かれる笛が、別の部族では少年たちを威圧する道具となるといったように。そのうえで、彼らはお互いのモノ=道具を盛んに借用し合っているのである。》
《なんらかの道具=モノは、それを巡る諸関係の布置(図)、イメージをおのずと持つが、それをもとにして別の諸関係の布置(図)があらたにつくられる。モノ=道具にはこうした布置(図)が、いわば「内在している」のだ。このとき図はもろもろのモノ=道具を関係づけ、結びつける媒体であるが、同時にモノ=道具は、異なる布置が重なり合う媒体にもなっている。》
《ある布置(図)から別の布置(図)が産みだされるというとき、最初の布置において中心的な役割を果たしていたモノ=道具は、しばしば周縁的な役割に置かれることになる。》
《(図と地は)もともと二つのパースペクティブではなく、地はまたもう一つの図であり、図はまたもう一つの地であるというように、一つのパースペクティブが二通りに眺められるのである。他方にたいする関係においてはどちらも変わりなく振る舞うので、これらの次元が全体化されるようにして構成されることは決してない。》
一つの主体=全体もまた、別のある部分に含まれ、ある部分の描く「図(布置)」の一部として機能するという時、はじめてホーリズムの機能が脱臼される。ストラザーンは、部分と部分、部分と全体という役割が、「入れ替わる」という出来事を感覚的に示すために、カントールの塵という、ブランクを含んだフラクタル図形を示す。様々なケールで同じ構造を示すフラクタル図形においては、スケールの大小という関係、「含む」と「含まれる」という関係、部分と全体という関係、図と地という関係など、背反的な関係が反転可能になる。
この本では、ストラザーンの問題意識が次のようにまとめられる。
《①モノと関係(図)を相互包摂で可逆的なものとして捉える。②モノと関係(図)を、それらが互いを包摂しあい、媒介する運動のなかでいずれも複数化する。③関係(図)と関係(図)も、それぞれモノを含みつつ、相互包摂的なものとする。④これらの操作、メタ的な関係を「内在させる」モノを、「切り出して」それに着目する。⑤そこで現れたモノや図を、彫琢=展開(Elaboration)しながら、徐々に変奏していく(固定化せず、複数化する)。》
●しかし、これが過剰な「関係主義」にならないために、ここに(パースによって補強された)ハーマンの三項関係と、入れ子化された脱去が要請される。
(今日はここまで。)