●noteに、「冥界と身体、冥界の身体/『ゼーガペイン』と横尾忠則」(1)と(2)とをアップしています。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/nf9c5671498c9?creator_urlname=furuyatoshihiro
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n64e884808e87?creator_urlname=furuyatoshihiro
もし、このテキストを今の時点で書くとしたら、清水高志、グレアム・ハーマン、マリリン・ストラザーンなどを参照して、「交差交換」「袋詰め理論」「部分的つながり」などの考え方を取り入れて書くと思うのですが、このテキストを書いた2012年当時には、それらを知らなかったので(清水さんの二冊目の本までは読んでいたけど)、二元論の各項が、互いに互いを食い合う(相互包摂する)ようにして循環的に位置を入れ替えたり、(隠された)第三項の作用によって、二元論という一見スタティックな形を残したまま、その内容(項)が次々入れ替わることで、別様な(図が別様なのではなく、地が別様であるような)異なる二元論へとどんどんずれ込んで、変化し、増殖していくような働きを、「メビウスの帯」という比喩を用いて、なんとかして書こうと試みています。
横尾忠則の作品にかんしては、その形式を分析したり、描かれたイメージを分析したりしてもあまり意味がなく、一つ一つは紋切り型でしかないイメージを、結び付け、展開させてゆく力というか、世界を崩していくことと、組み立てていくことが同じことであるような、(作品の表面には見えていない)ある「生成の機構」を捉えないと、何を言っても、あまりに融通無碍なその作品(イメージに)に言葉が吸い取られて、消えていくばかりだと思って、あえて横尾忠則の「小説」について、それに絞って書きました。
(そして一方で、『ゼーガペイン』というアニメを観て受けたショックをどこかで書きたいという気持ちもあり、半ば強引に結びつけています。)
かなり苦労して(実力以上に背伸びしたりして)書いた覚えがあり、改めて読み返しても、上手く言えていないと思うところが多々あって、かなり読みにくい(そして、記述に怪しいところがある)かもしれません。それでも、今、自分が考えていることとけっこう繋がっているように思います。その分、かえって読み返すときにキツイのでしたが。
初出は、「ユリイカ」の2012年11月号 (特集・横尾忠則)ですが、「メビウスの帯」にかんする記述で、あきらかに数学的に間違っている部分があったので、そこを訂正、削除するついでに、全体的にけっこう細かな加筆、訂正を施してあります。