●お知らせ。明日、9月4日の東京新聞夕刊に、神奈川県立近代美術館 葉山館でやっている「若林奮 飛葉と振動」展のレビューが掲載される予定です。若林における「表面の厚み」という概念について書きました。
●ネットワークによってノードを解消させることはできないのではないか。
「心」がわたしの内側にあるのではなく、環境にひろがって、外に分散してあるのだとしても、その非中心的な環境を、「ここ」へと集約させる中枢的ノード(わたし)がなければ「心」とは言えないのではないか。思考が、脳のなかにあるだけでなく、この世界のあらゆる場所に遍く存在しているとしても、そこに「一つの思考」を見いだす、何かしらの中枢化された意識が必要であり、つまり環境(因果的な連関)の中から思考を観測するものとして、「わたしの脳」が必要ではないか。
心が環境へと広がり出していること、必ずしも中枢化されない思考が世界のなかに遍くあること、それ自体はおそらく正しいのだろう。しかし、それを言う人が、それによって心(意識)と物(脳)との二元論を一元論的に解消できた、あるいは超え得たと考えるのは間違っているように思われる。そこには確かに、素朴な、あるいは硬直した二元論とは「別の切り口」があり、それは世界を別のやり方で新鮮に記述し、探求することを可能にする。しかしそれは、あり得る切り口の一つであり、二元論を完全に排除するものでもないし、完全に包摂するものでもない。双方は相対的であり、相補的ですらある。
(例えば、アンディ・クラークと共に「拡張する心」という概念を提出したチャーマーズは、心身二元論者である。拡張する心と心身二元論は両立可能であり、排他的ではない。)
(一元論、二元論のどちらをとるのかは、現時点では、信仰、信念、趣味の問題であろう。正確に正しいことはわからないのだし、また、わかっていたとしても、そのロジックを完全に理解する能力が「わたし」にあるかどうかはわからない。そうであるならば、人の生において、何かを選択する根拠としての「(わたしの)趣味」は、たんに恣意的なものではなく、きわめて重要なものだと思われる。)
「わたし」が、ある社会的関係性の効果であるとしても、ある社会的関係性が「わたし」としてあらわれるための凝集力を説明したことにはならない。あるいは、社会的諸関係、物理的諸関係が「わたし」(わたしの欲望、わたしの苦痛、わたしの絶望)として出現してしまうことへの驚きや恐怖や絶望が消えるわけではない。なんで、この宇宙には因果的諸関係だけがあるだけでなく「わたし」があるのか。
(例えば、世界の視覚的な多様性は、この世界に「眼」が出現するよりも前からあった。「眼」をもつ生物が生まれる以前から、この世界には多様な色彩や形があふれていただろう。そこに「眼」が生まれた時、この世界は「視覚像」によって根本的に新しく生まれ変わった(塗り替えられた)のか、それとも、それまでの世界に、たんに「眼」が加わっただけなのか。これは、心の哲学の「知識論法」と同型の問題だろう。)
無数にある、環境世界の因果的連鎖のなかで自分自身を一定期間持続させて機能する萌芽的な中枢の一つが、この地球上の進化の過程のどこかで、ある時とつぜん「わたし」として目覚める。これはどういうことなのか。我々の「内的感覚」とは、この瞬間の目眩や恐怖や絶望を、呪いのように反復しているということなのではないか。
●ネットワークというと、なんとなくその概念によって一元化がなされた感じにみえるけど、実は、ノードとネットワークの二元論は、心身問題の二元論、あるいは観測装置と観測者の境界問題と同じくらい解き難いのではないか。