●渋谷のユーロスペースで『霊的ボリシェヴィキ』(高橋洋)を観た。いや、すごかった。ラストは「唖然とした」としか言えない。かなり混んでいて客席の八割以上は埋まっていたと思うけど、映画が終わった後にはシーンと静まり返っていて、誰の喋り声も聞こえなかった。皆、無口でそそくさ立ち去るという感じ。
一部に、いわゆるJホラー的なギミックも使用されてはいるけど、それとは根本的に異なった「別のナラティブ」を実現していると思う。上から目線のような言い方になってしまうが「高橋洋はとうとうここまで来てしまったのか」と。主題的に、というか、ネタ的には『恐怖』からの発展という以上に、『発狂する唇』や『血を吸う宇宙』との関連が深いように思えるが、映画としての「語り」の形式が違っている。
(以下、決定的なネタバレは避けますが、かなり深く内容に触れているので、未見の方は注意して下さい。)
今までのどの作品よりも、高橋洋という作家の否定神学的、一神教的、一元論的な側面が強く出ているように思えた。たんなる降霊儀式が、共産主義的な国家の中央集権性(レーニン的中央集権、スターリン的独裁)と結びついてしまうことからも、そのことが分かる(この点は『狂気の海』とつながっている)。ここで試みられていることは、特定の誰かの霊を降ろすことではなく、「あの世」そのものに触れ、顕在化することであり、それはまさに、その場に集められた人たちが「この世」全体を代表する「選ばれた」エリートであり、前衛であることを示してもいる。端的にホーリズム的であり、マルクス・ガブリエルなら「存在しない」という「(一つの原理から構築される)世界」が、「ひとつの世界」として存在していると信じられていて(つまり、マルクス・ガブリエルやグレアム・ハーマンが批判する、科学的統一理論を目指す「唯物論」そのものだ)、その「一つの世界(全体)」の代表として(まるで国家の中枢そのものである共産党の党大会のようにして)、この降霊会という場が設定されている。少なくとも、霊能者や「先生」と呼ばれる人たちは、そう考えている。
「あの世」とは、「この世」が「一つの世界」として存在するために要請される、「この世ならざるもの」という否定によって定義される絶対性であろう。つまり、「あの世」が「この世」から排除されている限り、「この世」は決して「世界全体」とは言えず、ある余剰を取りこぼしていることになる。そのような「あの世」を「この世」に召喚することによって、本当の「一つの世界」という全体主義(全体性)が成立する。とはいえ、「あの世」とは本来、否定によってしか定義されず、決して顕在化しないことによって単一的な「この世」を支えている単一的な絶対性であるはずだろう。だからもし仮に「あの世」が召喚されるとしたら、「あの世」と「この世」との邂逅は対消滅によるすべての消失を引き起こすしかないだろう。この作品の、あるいは高橋洋の作品から発する強い緊張の一面は、このような否定神学の徹底によってもたらされると思われる。
だがそうだとしても、ここで「あの世」が、一種の表象不可能な何かとして表象されるとしたら、そしてそれが「すべての消失」というあらかじめ想定可能な結末にしか至らないとしたら、それは結局、退屈な否定神学になるだろう。しかし、高橋洋の作品において、「この世ならざるもの」という否定によってしか定義され得ないはずの「あの世」が、「この世」と「あの世」という双対性の主題にいつの間にか入れ替わってしまうという事態が起る。『恐怖』においては、この世の外にあるあの世に「触れる」ことによって「霊的進化」をとげるというマッドサイエンティストの主題が、いつの間にか、母と娘、姉と妹という双対性の主題によって脱構築されてぐずぐずになり、最後は、否定神学的な「唯一のこの世/あの世」が、多世界解釈のような「複数のこの世」とでもいうようなものへと解体されて、「あの世」が消える(「あの世」など存在しない)という結末に至る。
霊的ボリシェヴィキ』においても、途中までの流れは似ている。当初、「この世」の全体性を代表するものとしての降霊会は、「霊能者」や「先生」が仕切っている「この世ならざるあの世」に触れた体験を語り合う場であったはずだ。しかしそこに、由紀子と安藤というカップルが加わることで、その主題がブレてしまう。由紀子や安藤が語る話は、この世の外としての「あの世」に触れたという話ではなく、「この私」がいつの間にか「別の誰か」と入れ替わってしまっている、あるいは、いま、ここにいる「私」は本当の由紀子や安藤ではなく、由紀子や安藤の入れ替わりとして存在する「偽物」なのではないかという「疑い」が生じるような体験である。
(いわゆるカプグラ症候群では、自分の身近にいる人が、外見は一緒だけど中身だけ別人に入れ替わってしまっていると感じるのだけど、ここでは「このわたし」そのものが、「このわたし」ではなくその偽物なのではないか感じてしまうという感覚が語られる。自己における自己の所有感そのものが疑われる。)
つまり、この世と、その絶対的な外としてのあの世という対立は、「ここ」と交換可能な「そこ」との入れ替わり(より正確には、絶対に「交換不可能」であるはずの「ここ」と「そこ」が何故か入れ替わってしまっている)という話にすり替わって(交換されて)しまう。そして、『恐怖』と異なるのは、それが否定神学脱構築に終わるのではなく、「入れ替わり体験」の方が優位になって、否定神学的主題をまるっきり書き換えてしまうということだ。
(追記。つまり「あの世」とは、この世の外にある深淵のようなものではなく、そのような「変換」「交換」が何故か起ってしまうという、その事実そのものの名なのだとも言える。)
霊的ボリシェヴィキ』では、こことそことの交換という主題が、いわばフラクタル的に様々なレベルで仕込まれていることで、否定神学的な二項対立(二元論の、一元論=全体性への強引な還元)という主題を、たんにぐずぐすにするのではなく、内側から徐々に食い破ってしまう。
安藤は、二股をかけて二人の恋人をつくる。まずここに、恋人の交換可能がある。そして、その一方の恋人を殺害する。しかし、その恋人もまた二股をかけていて(二股の双対性)、殺人犯として捕まったのは、殺した女性のもう一人の恋人の方であった。確かに自分が殺したはずの女性の、もう一人の恋人が殺人犯として逮捕され、自白もし、服役もしている。一方、自分は何のおとがめもなくシャバ(ここ)にいる。だとしたら、いま、ここにいる自分は誰なのか、と。俺はあいつの偽物なのではないか、と。というか、俺のいる「世界」はどこなのか、と。
由紀子において事はもっと複雑である。まず由紀子には、幽体離脱のような夢の経験がある。自分が火に焼かれていて、焼かれている自分を上方から見ている。その時、焼かれている自分を見たくなどないのに、眼を瞑ることができない。なぜならば、既に瞼が焼かれているから。自分から分離した自分を強制的に「見させられている」。これがまず、「ここ」と「そこ」が入れ替わる体験だ。
そして、母と人形の入れ替わりもある。子供の頃に庭で遊んでいて、二階の部屋から母親にすごく冷たい視線で見られていたという記憶が由紀子にはある。しかし実はその時母は不在で、しばらくして買い物から帰ってきた。母の死後、その二階の押入れのなかから、母とそっくりの人形が出てきた(この辺、ちょっと記憶が曖昧のなで細かいところはまちがっているかも)。母と人形の入れ替わり(人と人形との入れ替わりは『血を吸う宇宙』で繰り返し描かれる)。この人形は除霊のために母方の親族を集めて焼かれるのだが、ここで焼かれる母=人形と、焼かれている自分を自分で見ている由紀子自身の見た夢とがつながり、母と自分との入れ替わりも示唆される(この人形は母方の家系全体にかかわっている)。
さらに由紀子は幼い頃に神隠しにあった体験がある。ある日ふといなくなって、数か月も戻らず、誰もが生存をあきらめた頃に、山中で無事に発見された。(ちょっと、この後かなりのネタバレがあります)それ以来、耳元で誰かが囁く声が聞こえていて、しかし何を言っているのか分からない。さらに、母親がある日、妙な手紙を受け取って以来、自分を見る眼がかわったような気がする。そして降霊会を通じて明らかになるのが、この匿名の囁き声が「お前は由紀子じゃない」というものだったということだ。母が受け取った手紙も「入れ替えられた」と書かれていた。
つまり「このわたし」は、入れ替えられた誰かであり、本当は「わたし(由紀子)」ではないかもしれない、という、「わたし(ここ)」という位置の根本的な否定が疑われる。しかしここで「否定」とは、「この世」を支える絶対的否定としての「あの世」というような否定ではなく、「わたし」と「他者」との、不可能であるはずの交換が「成立」してしまっている(かもしれない)という疑惑のことなのだ。つまり、否定神学的な「この世/あの世」の絶対性が、複数の「わたし」の交換(ここ=わたしが、そこ=他者であるはずの「もう一人のわたし」に内側から乗っ取られる、反転する、パースペクティブを奪われる)という事態へと、主題がはっきりと移動していく。
そのことにより「霊的ボリシェヴィキ」的な実験は完全に失敗に終わり、実際にそこに現れたのは、「この世」への「あの世」の召喚ではなく、「わたし=ここ(このこの世)」と「わたし(他者)=そこ(そのこの世)」とのパースペクティブの交差的な入れ替わりという出来事だったのだ、ということになる。
つまりこの作品の主題は、「あの世を召喚する(二元論的世界を一元論的に還元する)」→「あの世(全体としての一つの世界)など存在しない」→「わたし=この世と、わたし=他のこの世との間の、《わたし》の位置=パースペクティブの奪い合い、闘争的、排他的交換、反転」へと変化、発展していき、否定神学全体論が内破され、パースペクティブの交差的交換へと移行していくのだと言える。ここで恐ろしいのは「わたし」がいつの間にかまったく「別のわたし」と入れ替わってしまっているということになる。ここにあるのは、「わたし(この世)」の位置の排他的な奪い合いであろう。
そしてラストには唖然とするしかなかったのだった。