●一つ、大変な用事が片付いたので、地元のシネコンに二度目の『君の名は。』を観に行った。二度目を観て思ったのは、一度目に観た時に感じたよりもずっと『シュタインズゲート』的だったということだ。組み紐の絡まりというのは、世界線というイメージそのままとも言えるし、瀧と三葉は、オカリンとクリスにそっくりだと言える。ただ、「シュタゲ」では、クリスは忘れてしまうがオカリンは忘れない。世界でたった一人だけ「忘れることのできない」人物であるオカリンの孤独が強調される。
単線的決定論(宇宙ははじめから終わりまですべて予め決まっている)を逃れるためには、世界そのものが、自分自身の履歴を忘れてしまえばいい。世界は、その都度、自分の履歴を忘れて、組み直され、組み替えられる。『君の名は。』の基本には、そのような世界がある(一葉によって語られる世界の基本構造)。
世界は自分自身の履歴を簡単に忘れる。このような世界の性質を利用して、糸守町は自衛のためのシステムをつくる。それが宮水家の女性に代々伝わる「未来の誰かと入れ替わる力」だ。
(つまり、基本的な宇宙観として、ランダムに組み替えられる宇宙があり、そのような宇宙のあり様を利用する、人為的な自己防衛システムがある。)
三葉と瀧は、自覚のないままこのシステムに巻込まれて、二人の出会いと交流と感情は、糸守町自衛システムに利用され、結果として、糸守町の人々は守られた。だけど、糸守町の人々の命と引き換えに、三葉と瀧の出会いは、この世界から忘れられる。
そして、世界そのものが自分自身を忘れようとしている時に、それに抗って、 「何かを忘れた」ということを忘れないでいる瀧と三葉がいる。
(「シュタゲ」では、オカリンは忘れないがクリスは忘れる。「君の名は。」では、瀧も三葉もどちらも忘れるが、何かを忘れたことは忘れない。)
しかしそれと同時に、この映画には双数性という主題も確かにある。ただそれは、瀧と三葉という双数性だけが特権的にあるのではなく、瀧と、入れ替わった瀧という双数性、三葉と、入れ替わった三葉という双数性があり、死んだ三葉と生き残った三葉の双数性、そして、壊滅した糸守町と壊滅を逃れた糸守町の双数性があり、三年前と現在との双数性がある。つまり、「ここ」と「そこ」という距離(切断)が至る所にあり、しかし、その距離をもつものの「入れ替え」という形での連結がある。離接的な関係。いくつもの「ここ」と「そこ」が入れ替わる。
(双数性が重要な主題である物語に「二葉」が不在であるというのも面白い。)
「ここ」と「そこ」とは不連続である。異なる個体として不連続であり、性差として不連続であり、空間として不連続であり、時間として不連続であり、生死として不連続であり、記憶と忘却として不連続である。まず、不連続なものの間で不意の入れ替わりが起こり、その後に、その不連続性を形作る断層の「努力による踏破」が生じる(ここで瀧の努力は---それとは知らずに---システムに組み込まれ、予期され、要請された努力である)。瀧と三葉、都市と田舎、未来と過去との入れ替わりは不意に起り、その不意の入れ替わりによって、死から生へ、壊滅から救済へと、距離が踏破され、世界そのものの入れ替わりが実現する(それは、瀧の能動性と、システムによって用意された口噛み酒によって実現する)。しかし、その副産物として、記憶から忘却への入れ替わりも生じてしまう。
●けっこう重要だと思うのだけど、この物語で、糸守町の壊滅が回避されるのは、三葉=瀧たちの仕掛けた作戦によってではなく、三葉の父である町長の判断によってであり、つまり、三葉=三葉が父を説得したことによる。ここで、子供たちの作戦は失敗し、父=町長の介入があるということは、物語としてとても大きい。つまり、社会や行政の力(介入)によって糸守町は救われる。三葉の父は、宮水神社の神主になることを嫌い、政治家の道をすすんだ。結果的に考えれば、もし父が町長でなければ、宮水家の力だけでは糸守町の人々を救うことはできなかった。
●ここで、父を説得しているその最中は、まだ壊滅が回避されるかされないか決定していないので、その時の三葉は、死んでしまった(瀧との入れ替わりがあった)三葉との連続性が保たれているが、説得に成功したとたんに、「三年前に死んだ三葉」から「現在も生きている三葉」に書き換えられて、瀧と入れ替わっていた三葉との連続性が途切れてしまうはずだ(瀧と入れ替わっていた三葉は、死んだのではなく消えた、「まど☆マギ」で宇宙からまどかという存在が消えたように)。さらに言えば、説得が成功した瞬間に、「隕石で多くの糸守町の人々が死んだ世界」から、「誰も死ななかった世界」へと世界そのものが書き換えられたはずなので、瀧もまた、三葉との入れ替わりのあった瀧ではない、別の瀧へと書き換えられてしまったはずだ。
(この映画で、三葉が父を説得する場面がないのは、それがまさに世界の分岐の瞬間であり、三葉が書き換えられる瞬間であるから、それは描きようがないということだと思う。)
つまり、映画の終盤、就職活動をしている瀧は、三葉とは入れ替わっていない瀧であり、この世界は、入れ替わりのなかった世界であるはずだ。あるいは、宮水家の女たちはこの世界でも入れ替わりを経験しているかもしれないが、その相手は瀧ではないだろう。三年前に世界は、それ以前、宇宙の始まりにまで遡って、別の歴史をもつ別の世界へ書き換えられたはずなのだ。繰り返しになるが、本当は瀧と三葉が忘れたのではなく、世界そのものが忘れた。そうでなければ死者は復活しない。
●「世界そのものが世界自身を忘れる」という事態を想定する(想像する)ことが出来る。忘れたことを忘れたのかもしれないと想定することで、それは可能だ。ここに、この物語の重要性があると思う。この想像力は重要だと思う。