●改めて観て『君の名は。』面白かった。瀧になった三葉は、股間に違和を感じ、「なんや、ある」と言ってそこに男性器の存在を知る。だが、男性として思うのは、普段、別に何もない時に、自分の男性器のことなどほぼ意識していない。しかし、勃起している時は、そこに「なにかがある」ことが強く意識される。瀧は17歳の男性だから、この時、朝勃ちしていたと思われる。三葉は、入れ替わってまず、いきなり男性器が勃起している時の「あの感じ」を経験するのだ。
何が言いたいのかというと、身体が入れ替わることで、三葉は、瀧の身体によって、17歳の男性の性欲を経験し、そして瀧は、三葉の身体によって、17歳の女性の性欲を経験することになる、ということだ。瀧となった三葉が(おそらく)そうしたように、三葉となった瀧もまた、トイレで三葉の女性器をガン見したはずだ。そしてそれは、お互いにとって相当強い(受け入れ難い)違和感であったはずだ。身体が入れ替わるということは、取り繕う隙間もなくあからさまに、そういうことだと思われる。
二人の関係は、「運命」などというふわっとしたものではなく、取り繕うことも出来ない強烈な違和を感じ、そしてそれを(否応もなく)受け入れるということを通じて結ばれたと言える。それはプラトニックな「片割れ」などではなくあからさまに他者であり、他者(異性)の身体の経験であり、それを受け入れる(受け入れざるを得ない)ということだろう。
このような、身も蓋もない入れ替わりが最初にあることが、この作品以前と決定的に異なるところだと思う。かつて完璧な関係があり、それが今は失われているのだけど、かつての完璧だった関係を忘れることが出来ない(感傷)。そして、かつて完璧だった(と思い込んでいる)二人の関係が決定的に破綻する時、皮肉にもナレーション(声)の完璧な同期が起る(『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』)というのが、以前の新海作品だった。しかし、『君の名は。』にあるのは、声の同期(完璧な一体化=破綻)ではなく、身体の入れ替わりによる受け入れ難い違和であり、その違和を乗り越える過程である。そして、その過程の忘却があり、忘却に逆らう過程がある。
そしてここで、忘却とは、瀧や三葉が忘れるということではなく、世界そのものが、瀧と三葉の関係を忘れるということだ。それは、『輪るピングドラム』のラストで、冠葉と晶馬がこの世界から消えてしまうことと等しい(このラストは、「レイン」や「まど☆マギ」と同じだ)。三葉と瀧とがふたたび出会うということは、世界から失われた冠葉と晶馬の痕跡を、変わってしまった「この世界」の内に改めて発見することと等しい。だから、『君の名は。』は、「レイン」「ピンドラ」「まど☆マギ」のつづきの物語でもある。
ただ、『君の名は。』では、三葉と瀧とが再び出会い直すにはどうすればよいのか、は、問われていない。二人はすれ違う電車により偶然に出会い直す。そもそも二人の入れ替わりもまた偶然の出来事だとすれば、それは正しいのかもしれない。
『輪るピングドラム』では、荻野目苹果が自分自身を殺して荻野目桃果と同一化しようとして日記に書かれたことを完璧に反復しようとするが、『君の名は。』では、その「日記」が消えてしまっている。
再び出会い直した三葉と瀧との間には、三年という時間のずれがある。瀧にとって、同級生だった三葉が三歳年上になり、三葉にとって、同級生だった瀧が三歳年下になる。この年齢差は、かつてあった(入れ替わりのあった)世界では二人が経験していない事柄だ。だから、この世界での二人の出会い直しの先にある関係は、かつての世界での関係の再現とはならず、別ものになるはずだ。『君の名は。』では、「何か」を探しているとしても、それが「かつてあった完璧な何か」のようなものとして機能しないようになっている。これは、約束や運命といった「呪い(固着したもの)」の存在が、逆に、固定化した現状を打破する力として機能する幾原作品に近い感じだ。