●109シネマズ湘南に『溺れるナイフ』(山戸結希)を観に行った。DVDになってからでもいいかなあとも思ったのだけど、この前はじめてお会いした映画監督の安川有果さんがすごく良かったと言っていたということもあって、観に行くことにした。
面白かった。前半を観ている時は、これはとてつもない傑作なのではないかと思ったけど、やや中だるみというか、途中で、この映画が一体どこを目指して走っているのかよく分からなくなる感じになるところと、クライマックスの場面の組み立て方について、これを受け入れてよいのかの判断をちょっと保留したいという点はあるものの、全体としてかなり良いと言っていいと思う。一つ一つの場面をつくるということに対して、たいへんな力量のある人だと思った。いちいち、こんな撮り方があるのかと感心させられるし、紋切り型とか、定型通りみたいな場面は一つもないのではないか。バカな言い方だけど「新しい才能きてるなー」感がすごい。あと、この映画、一体どうやって終わるのだろうかと思いながら観ていたのだけど、最後は山戸結希という作家の作家性を強く押し出すような終わり方になっていて、この人はやっぱりそういうところに行き着くのか、と納得した。
(ぼくとしては、「俺たち世界最強、ヒャッホー」という全能感で満ち溢れたカップルの話で最後まで押し切ってもよかったのではないか、というか、そうしたらすごい傑作になっていたのではないかと思うのだけど、原作モノだからそうもいかないのか。)
最初に、キラキラ輝くものとして男性に出会い、しかし、そのキラキラは幻想だったという幻想の失墜があって、しかしその失望の後に、最初の幻想よりもさらに強化されたキラキラをその男性に無理やりに付与することで、最初の幻想とその後の失望との両者を同時に乗り越えてゆく、という展開は、実は『おとぎ話みたい』とけっこう似ているとも言える。ただ、『おとぎ話みたい』の主人公は、失望をかなり簡単に乗り越えて、現実の男性よりも自分の愛情の方が上回っている---愛情の強さが愛の対象を簡単に追い越してしまう---という状態になり、主人公の愛の対象はもはや主人公の頭の中にしかいないという感じになる。そして、主人公が果てしなく語り続ける妄想の語りこそが彼女の愛の対象をつくりだしてゆき、そうであるが故に彼女の愛の対象は最強となる。
『溺れるナイフ』の場合、幻想の失墜が外から来る暴力によってなされることと、男性の方もまた、自分が自分に対してもっていた幻想が壊れることによって傷ついてしまうこととで、幻想失墜の乗り越えは容易ではなくなる。主人公が、幻想とその失墜の乗り越えを、さらなる幻想の強化によって行おうとする点は『おとぎ話みたい』と同じだが、ここでは、男性の方がそれを拒否する。コウ(男性)にとって夏芽(主人公)は、自分の持っていた(幻想でしかなかった)全能感の象徴のような存在で、しかしコウは自分にそのような全能感が回復することはあり得ないと感じているので、夏芽との関係をやり直すことも不可能だと思っている。しかし夏芽は、コウとの関係をやり直すことで、かつての無敵の全能感を回復するという望みをあきらめきれない。だから、大友との(健やかでとても良い)関係にも満足できないし、コウとの関係も上手くいかないという、どっちつかずの状態となる。
映画の最後で、夏芽とコウは決定的に決裂する。幻想失墜の原因となったレイプ未遂の男を(結果として)コウが殺してしまう。夏芽は、この行為(幻想失墜の取り消し)によって夏芽-コウのカップルは無敵の全能感を回復したと思っている。だから、芸能界で成功し続ける自分と、そのさらに前を走っているコウというイメージをもつことができる。このコウは勿論、夏芽の妄想としてしか存在しない、妄想によって強化されたコウだ。しかし、この妄想のコウによって、夏芽は「もっと遠くへ行く」ための力を得ることができた。一方、実在するコウは、この行為によって逆に、どんなことがあろうと決して全能感が回復することがあり得ないと思い知ったのだと考えられる(描かれていないけど)。彼にはもう、海も山も夏芽もみんな自分のものだ、などと感じられることはなく、土地の他の人たちと同じように土地の神とともに---あるいはカナとともに---身の丈にあった相応の暮らしをするだろう。しかし、山戸結希作品のヒロインは、そのような実在するコウには、もう興味がないのだ。