●『かわうそ堀怪談見習い』(柴崎友香)、ようやく読めた。『星のしるし』、『ドリーマーズ』、あるいは『ビリジアン』といった作品の近傍にあるというか、それらの作品と強く響き合う作品だと思った。特に、『ドリーマーズ』の「クラップ・ユア・ハンド」、『ビリジアン』の「金魚」が、強く想起された。それらの作品で、わりと加工される前の「ナマ」の感じで出ていたものが、かなり整理されて、組み立てられている感じがした。柴崎さんの小説で初期からちらちらみられていた「視線」への恐怖の感触も、かなり意図的に出てきている。
ぼくは、ホラー映画が好きだけど、ホラーを見てもほとんど怖くない。ホラーを見て「恐怖」を味わっているのではなく、世界のあらわれ方の形式として、あくまで形式的なリアリティとして観る。でも、柴崎さんのホラー風味のやつは、ぼくにとっての「リアルに怖い」ところに触れていて、ガチで怖いところがある。この小説でも、前半で何度か「ヤバい」と思って読むのをやめようかと思った。例えば「11 古戦場」で、打ちあわせている編集者が《……怖い、って、ほんとうのところ、なにが怖いんでしょうね。得体が知れないから怖いのか、それとも、その先に起るなにかを、わたしたちはすでに知っていて、そこに近づいてはいけないって思うからでしょうか?》、とか言うところでビビッて、「いや、そんなずばっと言うなよ」とか思った。
この台詞はほぼそのまま、この小説がやっていることと通じていて、なにかが怖いのは、それが怖いことを既に知っているからだ、ということになる。つまり、それが怖いことは知っていて、しかし、今はその怖い事を上手く忘れていられているのに、下手に近づくとそれを思い出してしまう。既に怖いと知っていることを思い出しそうになっているという状態が、あるいは、思い出してしまうかもしれないというそのこと自体が「怖い」。
ただ、この感触をベタに「物語」に落とし込んでしまうと、安易な「トラウマ解決」のような物語になってしまう。そしておそらく、九十年代以降のJホラーは、この恐怖の感触を、安易なトラウマ解決に落とし込まないための、様々な形式的な試行錯誤という側面もあったと思う。
しかし、なにかを忘れていることを忘れているという恐怖はもう一つ、別の恐怖を生む。この世界(記憶・認識)にはいくつも穴が空いている。しかし、わたしには穴が見えず、連続的な世界であるかのように見えている。これだけならば、たんに「わたしは全能ではない」ということだ。しかしさらに、今のわたしにはそれが見えていないが、実はわたしはその穴を既に経験しているし、知っている。そして、既に穴を経験してしまっている以上、わたしは、その穴を経験する前のわたしとは非連続的な、別の世界に住んでいる。そのこと自体を、今のわたしは忘れているので、過去からずっと連続した世界に住んでいると思い込んでいるに過ぎない。「まだこっちの世界に来ないの」という向こう側からの誘いの言葉は、実は既に「そっちの世界」にいるのに、それに気づくことを拒否し続けているだけかもしれないという恐怖に通じる。こっちの世界とそっちの世界は並立しているので、あたかも通じているようだが、実は通じていない。
この場合の「そっちの世界」は「あの世」のようなものではない。ある視線によって折り返された「この世」であり、だからこの世と一見何もかわらない「この世」’としてある。ニーチェの有名な「お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ」ではないけど、わたしがあるものを見てしまうことで、あるものもまたわたしを見る。あるいは、あるものに見られてしまうことで、わたしもそれを見ずにはいられない。この、視線の折り返しによって、「この世」にいたわたしは不可避的に「この世」’に迷い込み、もう二度と「この世」には帰れないのだが、「この世」と「この世」’はぴったり重なっているので、普段はそれに気づかないでいられる。
そして、今は忘れることのできている「恐怖(わたしは既にそれを知っている)」を、再びわたしの元に届けるのもまた、この「視線の折り返し」なのだ。そして、この折り返してくる視線は「この世」と「この世」’の隙間からくるものだろう。それは至るところにあって、私を待ち受けている。
たとえば「13 桜と宴」で、リエコが主人公に過去の経験を語る場面は、明らかに、主人公が「自分の経験(あるいは自分の運命)を他者の口から告げられる」場面だと言える。あるいは「17 三叉路」は、主人公が、自分の経験を他者のものとして語った話が、読者からの手紙によって再び自らの元へ戻されてくるエピソードだと言える。眼というイメージに媒介されないとしても、「折り返してくるもの」は眼差し的な感触をもち、このような、折り返してくるものの切迫した恐怖に比べれば、「18 山道」で語られるような平行的、または融和的な存在は、どこか親和的で「あの世」的だと言える。
このような感じが、柴崎さんの小説を、トラウマ解決とも、トラウマ解決の形式的脱構築とも異なる、ナマの恐怖の感触に触れるものにしているように思われる。
●この小説のラストというか、「解決のさせ方」は、ちょっと「ピングドラム」っぽいかも、と思った。
●「9 二階の部屋」に出てくる、天井の低い部屋が、とても印象深いのだけど、これは、この小説の主題からすると傍系的イメージだろうか。また、別の小説において展開がみられるかもしれない。