2020-12-09

マルクス・ガブリエルは面白い。以下、『全体主義の克服』(マルクス・ガブリエル/中島隆博)より、マルクス・ガブリエルの発言からの引用。ここで言われる《否定神学とは異なる否定性》とは、おそらく、排中律のない否定性ということを言っているのだと思う。そして、《人間の実在を超えて、言葉では言い表せない何かに向かうことからは始めないのです》、と。

《(…)この時代(王弼の時代)の哲学に否定神学を見出せない理由のひとつは、それが神についての理論ではないことです。否定神学キリスト教ユダヤ強というあり方に依存しています。ユダヤ教キリスト教という一神教がない状況では、否定性は、神の否定性としてはあらわれません。神は可能性としてすら存在していないからです。当然、唯一神という考えなどありません。とはいえ、無神論でもありません。それは神学的な概念とは無関係なのです。》

《ですから、否定神学とは異なる否定性があるということです。それは超越なき否定性です。否定神学にはヒエラルキー(位階秩序)があるという思想と結びついています。ヒエラルキーという言葉は、否定神学の歴史から来た言葉です。擬ディオニシウス・アレオパギタが専門用語として導入しました。》

ヒエラルキーは文字通りには聖なる秩序です。物質のような質料的なものは流動性があって不安定なので、一番低い階層に位置づけられます。それから魂を有する動物、そして知性を有する人間となるにしたがって高位になっていきます。さらに人間を超えたところに、唯一の絶対者があります。それは、それ自身では構造をもたず、あらゆる物に構造を与えるのです。》

ヒエラルキーの思想が抱える問題点は、最上位の存在と最下位のの存在との区別ができないことです。質料的なものと絶対者は、どちらも同じ(規定できないという)属性をもっているのです。この問題を解決するために、絶対者については何も語ることができないとされました。絶対者については「絶対的である」とさえ言えません。質料については何らかの仕方で語ることができますが、絶対者についてはいかなる形でも語ることはできないのです。》

《ここからさまざまなパラドックスが生み出されます。もしそれが語りえないものだとしたら、それを指示した際に、わたしは何をしたことになるのでしょうか。このようにして、別の問題がさらに出てきてしまうのです。》

《それに対して、中国の伝統思想は、こうしたパラドックスの可能性に気づいています。哲学者たちは、アプローチはさまざまですが、このパラドックスを回避するために、取り消すという操作をするわけです。わたしは、取り消すという操作はパラドックスを受け入れるためのものではなく、その解決策だと考えています。》

《一方、否定神学は、困難を受け入れざるをえません。否定神学論者はパラドックスを受け入れ、実在の最も深いところでパラドックスが起きていると考えるのです。しかし、それでは実在に対して、不明確な見方しか得られません。実在の最も深いところが不明確だと考えることは、自分の心もまた不明確だということになります。》

《わたしはこうした問題をに認識し、パラドックスを回避する方法を見つけ、概念を変えるために、さまざまなアジアの伝統思想、とくに『老子』の思想を取り上げています。ですから、人間の実在を超えて、言葉では言い表せない何かに向かうことからは始めないのです。》

●上で言われる(非常に重要だと思われる)、《取り消すという操作》について、中島博隆の発言。《無とは物と無に分ける二元論ではありません。無は物以前に働くものです》ということ。

《王弼によれば、言語は単なる手段であり、「意(思っていること)」を表現できれば言語の役割は終わります。しかし、言語は間違って使われたり、誤解されたりしますね。純粋な「意」のために、いかにしてそのような誤解や誤用を避ければいいか。》

《王弼はこう考えます。そうした事が起きないように、新しいタイプの言語を発明しよう。それはある種の「取り消された言語」です。王弼は「忘言」つまり「忘れられた言語」という言い方をしています。》

《これは非常に理解が困難な概念です。言語が作動する前に、その誤用や誤解を生む動きを抹消しなければならない。そのような純化された言語を使用できれば、いかなる誤解も生むことなく、純粋な意を表現することができる。これが王弼の考え方です。王弼にとって、無という概念も同じような役割を果たしています。無とは物と無に分ける二元論ではありません。無は物以前に働くものです。これは一種の取り消された働きです。王弼の非常に微妙な定義ですが。》

●これを受けての、マルクス・ガブリエルの発言。

《(…)ウィトゲンシュタインと比べてアジア哲学の際立った特徴のひとつは、あなたが王弼に対して指摘したように、何かしらの操作の取り消しがあり、その取り消しは形而上学的な理論化に基づいているということです。》

《瞑想や救済への明確な道を確保するために、形而上学をただ拒絶しているのではありません。そんなことじゃないんです。これこそ哲学的な理論化なのです。》

●《無とは物と無に分ける二元論ではありません。無は物以前に働くものです》というのを、ぼくなりに言い直せば次のようになる。地(文脈)がまずあって、その中(その上、その後)に、図(意味)が生じるのではなく、地と図は同時に生じるのであって、その「地と図の発生」のときに働いているのが「無」であり、それは地と図の発生と同時に取り消される、ということになる。