●引用、メモ。『実在論的転回と人新世』(菅原潤)、第三章「マルクス・ガブリエルの無世界観」より。自分なりに整理したが、けっこうややこしい。
●クリプキは、存在するものと存在しないもの(架空のキャラクターなど)に違いについて、次のように考える。バンダースナッチという架空の動物について、「北極圏にバンダースナッチは存在しない」という文があるとする。この場合、「バンダースナッチは(北極圏に)存在したかもしれないが、存在しないということがたまたま真である」のではなく、バンダースナッチはいかなる状況でも存在しないのだから、「バンダースナッチは存在するという真なる命題が存在しない」(「可能ではない非存在」)ということを意味する、と。対して、存在するものは、たとえば「夏目漱石は『金閣寺』を書いた」という命題が偽であるという場合、「夏目漱石は『金閣寺』を書いたかもしれないが、『金閣寺』を書かなかったというのがたまたま真である」(つまり、存在するものにかんする偽である命題は「可能な非存在」である)ということになる。
このような存在概念に対して、マルクス・ガブリエルは《その説明はボトムアップ的である》として異を唱える。以下、マルクス・ガブリエル『意義の諸領域』からの引用部分の孫引き。
(なお、ライプニッツは、必然=存在しないことができない何ものか、偶然(偶有)=存在しないことができる何ものか、可能=存在することができる何ものか、不可能=存在することができない何ものか、という四つの「様相」を考えた。)
《クリプキにとって重要なのは、ナポレオンのような個体化された事象が存在することである。例えば「ナポレオンは存在しなかったかもしれない」と主張する際に、様相的にその非存在が考察可能な事象である。この見方にたつと「ナポレオンにまつわる言明は、ナポレオン以外の誰かに当てはまる性質を述定する言明と同じ数だけ存在する」。それゆえ少なくとも可能な非存在と、それゆえの偶然的な存在が何らかの客体の性質に思えるのに対し、ユニコーンは様相的なコンテクストにおいてナポレオンのような立場にはない。なぜならユニコーンは、最初に実体の領域に属するのに適当だと限定されるには不十分だからである。(中略)クリプキによる実体と性質の区別についての説明で前提されるのは、記述の巧拙とは別に記述の起点になるような、そうした客体の指示とは独立した手段をわれわれは持ち合わせているということである。その説明はボトムアップ的である。われわれは最初に指摘をしたり、名称、記述あるいは客体との因果的遭遇に過ぎなかったものを洗礼を裏づける厳密な領域へと転じるのに必要な何もかもを用いて指示したりすることで、あれこれの仕方で客体に精通するようになる。それゆえクリプキは、指示を限定するのは意義一般であること、意義だけであることを拒絶する(ここで「意義」は既訳書で「意味の場」と訳されている「意味」と同語、引用者=私による註)。以上の洞察は言語哲学にとって有用なのかもしれない。そのことに私は疑義を挟まない。疑義を差し挟みたいのは、この洞察が正しい存在論に行き着くことである。なぜなら客体に対して部分的に拙い記述がなされる場合ですら、客体の記述はつねに保持されてしまうからである。客体と接触する際に拙い(言うならば誤った)記述を用いることができるという事実は、記述の表層の底辺に指示の純粋な客体として客体が存在することの証明に必ずしも行き着かない。》
●上記の引用部分に次いで書かれる、筆者(菅原潤)によるコメント。
《かなり難解な言い回しなので筆者なりに敷衍すると、クリプキが興味があるのは『名指しと必然性』で追求されたナポレオンのような実在した個体(人)であって、ユニコーンのような架空の存在ではない。またその存在することの可能な非存在を想定したうえで、個体を同定するクリブキの手法を何の条件づけもなく採用すれば---『名指しと必然性』におけるリチャード・ニクソンの例を想起させる---アーノルド・シュワルツェネッガーがカリフォルニア州知事になる可能性と性転換手術をして「ノルウェーの売春婦」になる可能性が等価になるというような、にわかには考えにくい可能性も想定される〔Gabriel(2015)94〕。それでいてユニコーンのような「角がある以外は仔馬に似ている動物」といった偶然的要因が顧みられる余地はない。こうした「拙い記述」があれこれ用いられることの背景には「帰属される性質を抱える事物」という「伝統的な意味での実体」が前提されているとガブリエルは見立て、そうした伝統的な実体に拘泥するのではなく「客体と概念のあいだ、あるいは客体と意義のあいだの差異は実体的ではなく機能的で」あるべきだと主張する。こうしてガブリエルはクリプキの可能な非存在を想定するという着想には共感を抱きつつも、その着想の前提となる伝統的な実体を拒否する。》
●マルクス・ガブリエルにおいて「何かが存在しない」というのは、それが絶対的に存在しないということではなく、「ある特定の意義の諸領域(意味の場)においてそれは存在しない」ということを意味する。そうだとすれば、たとえば「月」も「ユニコーン」もどちらも、各々が現出する意義の諸領域(意味の場)においては存在するので、同等の存在論的身分を有することになる。以下、『意義の諸領域』からの引用部分の孫引き。ここで言われている『最後のユニコーン』は実在する映画。
《このユニコーンは、ユニコーンの振りをするために偽装している仔馬ではない。実際に『最後のユニコーン』にはユニコーンが、つまり最後のユニコーンが存在する。ここで私が言いたいのは、最後のユニコーンがわれわれの想像力のうちで存在するということではない。近い未来かあるいは(こちらが望ましいが)遠い未来かは別にして、未来に全人類の想像力が死滅する状況を想像してもらいたい。それでも映画『最後のユニコーン』のうちに、少なくとも一等のユニコーンが存在する。(中略)『最後のユニコーン』におけるユニコーンの存在は地球から見える月と同様、客体的かつ実在的で心から独立している。心はユニコーンの現出に関わっても月の最初の現出には関わらないかもしれないが、そのことでユニコーンが構築物に転じたり、その存在を認知するために多くの人間が署名しなければ存在しないものに転じたりしない。(…)『最後のユニコーン』にユニコーンが登場すると主張する場合、われわれは自分たちの想像力に関して何かを主張しているわけではない。『最後のユニコーン』が実在するという事実が様相上最大限に頑強なわけではないのに対し、最後のユニコーンが存在し映画の世界の誰かが想像したものではないという事実は、映画の存在よりも様相的に頑強である。》
●「祖先以前性」について、メイヤスーは「論理的過去」と「物理学的過去」とを混同している、という批判。『意義の諸領域』からの引用部分の孫引き。
《(…)雨が降っていることと、雨が降っているとブリートニーが思うことは等しく実在的かつ絶対的である。われわれが存在してその存在を知るようになる以前より宇宙が形成されていることとそのように信じることは等しく実在的かつ絶対的である。われわれの宇宙と当該の宇宙についてのわれわれの思想の双方が存在し、しかもわれわれは両者を指示することができる。他方で宇宙と当該の宇宙についての思考のあいだには、論理的時間の関係が存在する。われわれが意識するのは、われわれの思考が論理的にわれわれに対して宇宙が次のような何かとして提示することである。その何かとは祖先以前性より存在し、十分な探索を受けなくても長いあいだ存在し続けたものである。それゆえ宇宙の論理的過去は、宇宙の物理学的過去と同一ではない。前者は宇宙にまつわるわれわれの思考の客体性を説明するために導入されたものである。メイヤスーは論理的過去と物理学的過去を混同している(…)。》