2023/02/02

●切れ切れになってしまったが、『不穏な熱帯』(里見龍樹)、ようやく最後まで読んだ。すごく面白かった。近代的な「自然/文化(社会)」という二分法、そしてその展開形としての「多文化主義・文化相対主義(唯一の自然に多数の文化)」を乗り越える方途として、存在論的に過激な「多自然主義(一つの文化に多数の自然)」や「ネットワーク一元論(自然=文化)」を参照しつつも、それらとはやや重点の異なる行き方をする。「自然」を、ネットワークから脱去するもの(人間以後の自然)、ネットワークの背景(地)としてありつつ、ネットワークの組み換えを迫ってくるもの(人間以前の自然)という、常に「ネットワーク(社会諸関係)の外部」としてのみ現れるものとして捉え直す。

(近代的な「自然/文化」という二分法が成立しない、「自然=文化のもつれ合いとしての一元的ネットワーク(アクターネットワークセオリーやマルチスピーシーズ人類学)」をいったん肯定しつつも、そのような「自然=文化ネットワーク」からも常に零れ落ちつづける外部として「狭義の自然」を考える。)

これは、理論の形としてはハーマンに近いように思う。ネットワークから脱去するものとしての「自然」は、我々の目から隠されていると同時に、不穏な「イメージ」として我々に前に現れ出てきて、自己やネットワークの組み換えを迫ってくる(そして、その組み換え可能性を支えるのもまた、地としての自然なのだ)というのも、ハーマンの、実在的対象・実在的性質がどのようなアクセスからも零れ落ちる一方で、感覚的対象・感覚的性質として我々の前に現れてくるという論の組み立てと似ていると思う。

この本で紹介される、ハリスン、ワグナー、ストラザーンなどの仕事をみると、人類学の哲学に対する先行性をすごく感じるし、哲学でなぜ「相関主義」が批判されなければならないのか、その必然性や切実さがみえてくる。思弁的実在論オブジェクト指向存在論が、ただの流行でも、たんに哲学史上の(業界内の主導権争いの)問題でもなく、現在の「この世界」が置かれている状況から切実に要請されたものだということが、人類学を通ることで改めて感じられる。

(とはいえ、この本で引用されるのは、フーコーであり、ドゥルーズなのだが。)

●以下、第三部「自然」から引用、メモ。

●「人新世」の両義性

《(…)「人新世」の概念は両義的な意義を帯びている。一方でこの概念は、人間主体における利用や認識の客体という位置付けを超えて、もはや制御不能で予期せぬかたちで非-近代的な「自然」が現れつつあることを主題化している。それはまた、地球が人類にとってもはや住居不可能になる終末論的な可能性をも示唆しており、これらの点において、それはすぐれて非相関主義的な、人間〈以後〉をめぐる思考となっている(…)しかし他方において、地球環境の至るところで「われわれ」の活動の痕跡を帯びていることを見出す「人新世」の概念は、一面において、「自然」に対する人間の主体性を最大限に強調する、近代の到達点のようにも見える。》

《(…)至るところに人間活動によって浸透されており、もはや「手つかずの大自然」といった客体を想定してそれを保護しようとすることは意味をなさない。このような議論は時に端的に「『自然』の終わり」論と表現される。》

《他方で同時に、日常的というべき頻度で話題になる異常気象や海面上昇は、人間がつくる「社会」や「文化」がそれ自体として自律し完結した領域ではなく、これまで「自然」と呼ばれてきたものにつねに支えられてきたこと、そしてまた、そうした人間〈以前〉的な自然との関わりにおいて根本的な脆弱性を抱えていることを証拠立てている。》

《(…)私の見るところ、「人新世」論は、ある点において、これまで「自然」と呼ばれてきたものについて思考し損なっている。すなわち問題は、「人新世」の概念や現代の一部の人類学者が、「自然」をめぐって「もはや外部としての自然など存在しない」というイメージを提示していることにある(…)。これに対し、私の考えでは、「至るところで人間活動と自然はもつれ合っている」とされ、「もはや外部はない」とされる「人新世」においてさえ、なおもある種の外部としての「自然」、しかもある意味で無関係的というべき、「人間」との相関を超えた外部としての「自然」について語ることは必要である。》

●析出される「自然」(ワグナー)

《『文化のインベンション』においてワグナーは、二〇世紀初頭以来の人類学における。「所与の客体としての文化」という実証主義的な概念を批判し、人類学という営みを、人類学者と現地の人々による双方向的な「創発」(invention)のプロセスとしてとらえ直すということを提唱している。すなわち、人類学者が行うものであれ現地の人々が行うものであれ、他者理解とは一般に、たとえば「文化」というような既成の概念を、新たな文脈に適用し延長することで変容させる創造的なプロセスである。そしてワグナーは、そうした「創発」のプロセスが至る所で起こっていることを強調し、人類学者の営みはその一部にすぎないとする。人類学者のフィールドワークの過程では、そこで経験されるさまざまな差異が「異文化」として概念化され、それと同時に、人類学者自身が「もともともっていたもの」として「自文化」が発見される。(…)「文化」概念を延長することによって、「自文化」と「異文化」の双方を同時に創発するプロセスなのである。》

《(…)このようなワグナーの議論においてカギとなるのが、「所与の慣習」(convention)と「創発」(invention)の間の、彼が言うところの「弁証法」である。すなわち通常の理解によれば、「慣習」は所与の実体であり、それに対し、自らをそれと区別するようにして「創発」が行われるとされる。これに対しワグナーは、「所与の慣習」から自ら区別するようにして「創発」が行われると同度に、「創発」が行われることによって、ある「慣習」が「もともとあったもの」として見出され、「析出される」(precipitated)という双方向的な関係を指摘する。》

《(同様に)「本在的なもの(the innate)/人為的なもの(the artificial)」の関係についても指摘される。(…)ワグナーは、まさしくここにおいて、「文化の創発」だけでなく「自然の析出」についても論じているのである。》

《(…)通常「所与の自然」とみなされる「本在的なもの」それ自体が、「人為的なもの」との対比において常に実践的に「析出」され、創出されているという逆説がそれである。》

《(…)ワグナーの議論が示唆的であると思われるのは、彼が、「自然から文化への移行」という近代的な図式を回避しつつ、かといって、「自然的かつ社会的ネットワーク」といった関係性の一元論に帰着することもなく、「自然」をあくまであらゆる社会にそれぞれの仕方でともなう外部性としてとらえている点においてである。》

《(…)「すべてが自然的かつ社会的な関係性である」と論じるかわりに、ワグナーはたしかに、ある社会の人々がそうした関係性の外部を「本在的なもの」として思考しており、そうした外部についての思考を民族誌的に論じることができる、という可能性を指摘しているのである。》

●関係から脱落する「イメージ」(ストラザーン)

(ここでの引用部分だけを読むと、「イメージ」とはただ社会関係において産出的に働くものであるかのように感じられるかもしれないが、この本に書かれている著者によってフィールドワークされた「島々」の「イメージ」は、ネットワークからただ脱落して無関係化することの不気味さをもち、コミュニティが衰弱して滅びていく徴のようなものでもあり、両義的である。)

《(…)『贈与のジェンダー』におけるストラザーンの課題の一つは、人類学における「自然」と「社会」の概念的関係を徹底的に書き換えることにあった。彼女が論じるところによれば、二〇世紀初頭以来の人類学は多くの場合、分析対象としての「社会」あるいは「文化」を、「自然」との否定的・対立的関係において規定してきた。(…)メラネシア人類学における「交換」の概念は、人類学における「文化」や「社会」の概念が多くの場合そうであったように、根底において「自然」と対立し、それを排除するかたちで成り立っていた。たとえば、メラネシア人類学における「広義の交換」論にも影響を与えたレヴィ=ストロースの親族論において、集団間の「女性の交換」としての婚姻は、人間の「自然」から「文化」への移行、あるいは人間の「自然的」条件の否定による「社会」の構成と同一の事態として論じられてきた。》

《(…)そこにおいて「社会」は、人間の身体的な生もその一部である「自然」の否定・克服を通じて構成されるものと理解され、人類学者の務めは、そうした否定・克服の機制に他ならないさまざまな社会的・文化的実践を分析することであるとされてきた。》

《(…)ストラザーンは、「自然」と「社会」のそのような否定的で二分法的な関係付けをメラネシアの諸事例に即して全面的に転覆しようとする。彼女によれば、イニシエーション儀礼その他のメラネシアの社会実践において問題とされているのは、われわれが「自然的」と呼ぶ人々の身体的な生を否定・克服することにあるどころか、まったく逆に、それら身体に内在する生殖や成長の力を、その実現を通じて明らかにすることにほかならない。メラネシアの社会過程は、人々の身体がそうした「自然的」な能力を繰り返し実現し、それによって新たな身体や社会関係が不断に生み出される産出的な過程として展開されるのである。》

《(…)『贈与のジェンダー』において、生殖や成長といった身体的能力としての「自然」は、自らを実現することを通じてつねに新たな社会関係を生み出す力能として、潜在的に、しかし根底においてポジティブに位置付け直されているのである。》

《(…)たとえば、ニューギニア高地に住むパイエラの人々の間では、イニシエーション儀式のクライマックスにおいて、森の中に隠れていた少年が人々の前に姿を現し、人々はその身体、具体的には儀礼の効果として予期される成長の具合を見ることで、儀礼の成否を判断する。ここにおいて少年の身体は、日常的な社会関係から切り離され、森を背景に孤立した状態で、他の人々による視覚的な吟味の対象とされる。このように、『贈与のジェンダー』で前景化される「自然的」な身体は、通常の社会的文脈から脱落した「イメージ」として立ち現われ、そのような姿においてその力を発揮するのである。》

《(…)メラネシアにおいて、身体がその力能を発揮することを通じて新たな身体と社会関係を不断に生み出していくとすれば、人類学者が、既存の記述に収まらない意味や関連を書き取ろうとしてつねに新たな記述を生み出し、またそれを通じて、既存の概念を反復的に延長・変容させていくという民族誌の営みも、同様に身体的で産出的な過程として見ることができるのではないか。》

《(…)そのような「自然」に漸近する民族誌は、ストラザーンにおいて、儀礼における孤立した身体や、文脈から脱落し無関係の形象として立ち現われるモノや場所などの「イメージ」に注目し、それらを記述することで可能になるとされていた。》

《(…)人間〈以前〉的にして人間〈以降〉的なそのような「自然」は、ワグナーが「本在的」と呼びストラザーンが「イメージ」と呼んだようなその他者性において、アシの人々に、「われわれは誰なのか? われわれはいかなる歴史を経てきたのか? その歴史の中で、われわれはいかなる過ちを犯してきたのか? そして、われわれはどこで、どのように住まうべきなのか? 」という問いを投げかけ続ける。》

●ストラザーンの「イメージ」については以下も。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

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