2023/01/10

●台所のシンク周りを掃除していたら、百円玉一個と、231円玉二個を見つけたという夢を見た。231円玉は、銀色で百円玉と同じくらいの大きさだった。

●引用、メモ。マリリン・ストラザーンにおける〈イメージの方法〉」(里見龍樹)より。

http://www.jsos.net/nlpapers/NL126_01-18.pdf

●「内的能力」や「人格」は、客体化されることで「知られる」ものとなる

《『ジェンダー(贈与のジェンダー)』におけるストラザーンの議論について、筆者は別のところで概説している(…)。大雑把に繰り返すならば、メラネシアにおける社会的現実を記述するモデルとしてストラザーンが提示する「メラネシア的社会性」は、人は、自身の内的能力、あるいは自らを構成している親族関係その他の社会関係を、他者におけるその効果としてあらわれさせ(make appear)(あるいは明示、・可視化し(reveal、make visible))、そうすることによって自分自身の内的能力を知る(know)(知られるようにする(make know))という関係の上に成り立つものと考えられている(以上の単語はすべて、ストラザーンが一貫して用いている表現である)。それ自体としては不可知の、あるいは「かたち、形態(form)」をもたない、人の内的能力あるいは社会関係がそれにおいて「開示される」具体的な形態を、ストラザーンは「客体化[の形態](objectification)」と呼ぶ。彼女によればこうした「開示」は「適切な美学(aesthetic)を通じてのみ」、すなわち習慣化された一定の「形態」をとることによってのみなされうるのであり、逆に「不適切な仕方でなされたならば、関係はあらわれない」(…)。『ジェンダー』の、とくに第二部における中心的な記述の対象は、メラネシアにおける、こうした「美学的習慣(aesthetic convention)」、あるいは「美学的拘束(aesthetic constraints)」(…)の下で実現される「客体化」の多様な「形態」にほかならない(そしてこの「客体化の(美学的=感性的)形態」が、『ジェンダー』や『所有、実体、効果』において、「形象(figure)」や「イメージ」としばしば言い換えられている。》

《ストラザーンのこうした「メラネシア的社会」のモデル、とくに「社会関係」が具体的・感性的「形態」において「可視化」・「客体化」され、そうすることで「知られる」という関係を、(…)ニューギニア高地のアーサックの記述に見てみよう》。

《(…)バイエラでは、男性(既婚男性)の身体的健康の強さは妻が月経のたびにおこなう「秘密の」呪術に依存しているとされるのだが、この人々の思春期儀礼においては、少年たちが、集落を離れて森の中に身を隠し---自分たちを不可視化し---、将来の妻とのそうした関係を、「ショウガ女(Ginger Woman)」と呼ばれる女性の精霊との間で先取り的に取り持つことを試みる。それぞれの少年は森の中で、精霊のためにショウガ畑を植える---ちょうど夫が妻に呪術を行ってくれるよう働きかけるように---のだが、この贈与に対し「ショウガ女」が好意的に答えたかどうか、言い換えれば少年がこの精霊との間に肯定的な関係を結ぶことに成功したかどうかは、夫婦の関係においてと同様に、この儀礼の間に少年たちの肌が「成長」し、「大きく、美しく」見えるようになったかで「知られる」。》

《この過程において、少年たちの、「成長することができる」という内的能力は、言うなれば2種類の他者に依存している。すなわち、ショウガ畑を贈与することによって自身の身体を成長させてもらう女性の精霊と、そうした交渉の結果、身体が成長したかどうかを実際に「見て」判断してもらう村の人々がそれである。ハイエラにおいて、少年たちはそれらの他者を通じてのみ、自身の内的能力を実現し、そして「知る」ことができるとされている(…)》。

《(…)ストラザーンは、この著作のほぼ全体を、しばしば「われわれ」には強烈に特異なものと感じられるこうした「客体化の諸形態(objectifications)」を記述・分析するものと定義している。》

《(…)ストラザーンの議論として頻繁に参照される、「人格(personhood)」をめぐる議論も、『ジェンダー』において本来こうした「客体化」論の一部をなすものであることには注意が必要である。「人格は諸関係の客体化された形態である」(…)と述べられるように、そこでストラザーンは「人格」を、メラネシアにおける社会関係の「客体化」のもっとも基本的な「形態」---こうした「客体化」が「人格化(personification)」と呼ばれている---として、したがってひとつの「形象」・「イメージ」として位置付けているのである。》

●「贈与」と芸術批評

《(…)『所有、実体、効果』の第1章でストラザーンは、自身の民族誌の実践において、「イメージ」の体験、(…)視覚的イメージが決定的な契機をなしてきたと述べている。》

《(『所有、実体、効果』からの引用)こうした贈与は、……それを見た人々から反応を引き出そうとしているように思われた。それらは一般に、公開の文脈において(in a public context)、批評・判断を行う(critical and judgemental)観衆の前で、批評・判断を行う受け手へと手渡されたのである。形態を[そのように]吟味することは、まさしくその[吟味の]ために、形態は適切な性質をともなってのみあらわれることができるのであり、さもなければそもそもあらわれさえしない、ということを思い知らせた。(…)またそうした意味で、それらは欧米文化における「美術品(art objects)」の地位と似たようなものを、少なくとも、あるものがそもそも美術とみなされるかどうかは、形態の適切さについての議論[の問題]であるという理由から、もっている》。

《(…)芸術批評とのこうした類比が、メラネシアにおけるイメージの実践に、ある種のコミュニケーション、すなわち芸術作品を前にしてその美学的=感性的体験についての批評・判断を取り交わす「公衆(the public)」にみられるようなコミュニケーションの性質を認めるものとなっている点である。さらにストラザーンにおいて、こうした美学的=感性的にコミュニケーションは、一面において、メラネシアの人々のみならず人類学者も巻き込むものとなっている。》

●「太った赤ん坊は生まれてすぐ殺される」を経験する人類学者

《(…)『所有、実体、効果』の第3章をストラザーンは、ニューギニアのエトロ(Etoro)の人々についてのケリーの民族誌から、かつてこの人々において太った赤ん坊は生まれてすぐ母親によって殺されたという、ストラザーン自身にとって衝撃的な、「追い払うことのできないイメージ」(…)を引用することから始めている。こうした嬰児殺しの習慣を、ストラザーンはケリーの議論を受け、「生気(life-force)」を人々の間でやり取り・移動されなければならないものと考え、そうした「生気」によって構成される不可視の内的身体の状態が、可視的な外的身体---その見え方---によって他の人々に「伝達(communicate)」(…)されるというエトロの「美学的=感性的」な習慣によって説明する。すなわち、本来個人がその内的身体に溜め込むべきではないとされている「生気」を過剰に保持していると見られる太った赤ん坊は、そうした外見のゆえに生まれつきの妖術の能力の疑いをかけられて、殺害されていたというのである。》

《注目すべきはここにおいて、太った赤ん坊の身体という「イメージ」、そしてそれが社会関係(…)を「伝える」という「美学的=感性的な効果」(…)が、エトロの人々によってと同時に、人類学者(…)としてのストラザーンによってもある種決定的な仕方で経験されているという点である。この例が示唆するように、ストラザーンの方法には、問題になっているのが誰にとってのイメージであるのかということについての根本的なあいまいさが、「現地の人々/人類学者/読者」という通常の区別を逸脱し、あいまいさとして解消されないまままで組み込まれているように思われる。》

《これまで見てきたように、ストラザーンによれば、メラネシアの人々は視覚的・感性的なイメージ・形態をお互いに提示し合っており、それを見て社会関係を知ることがメラネシアにおける社会的現実の構成・実践にほかならないとされる。そうだとすれば、ちょうど美術館で、異なる人々が「同じ」作品をそれぞれ微妙に異なる仕方で見る---そしてさらに、この体験について議論を交わす---のと同じように、人類学者がそうしたイメージを、たとえ現地の人々とは違った仕方においてであれ観察し記述することは、メラネシアの人々が現に行っているイメージの実践の、多かれ少なかれ屈折した展開・延長として、あくまで可能であるはずである。》

《こうした見方においては、現地の人々がイメージを見る仕方と人類学者---さらには民族誌の読者---がイメージを見る仕方が「同じ」であるという実証主義的な保証はないにせよ、イメージ・形象をそれぞれが「見ることができる」という感性的な可能性は否定されない。》

《こうした意味において、イメージの水準に注目することそれ自体が含意する美学的=感性的な肯定性=実証性(positivity)---言い換えれば、上で述べたようなコミュニケーションの可能性---は、ストラザーンにおける人類学・民族誌の可能性の条件をなすものとして理解されるべきなのである。》

(つづく)。