●(つづき、『実在への殺到』について。昨日のつづきというより、特に興味を感じたところについて、理解のためにまとめたみた、という感じになった。ネタバレしまくりです。)
ハーマンによれば、オブジェクトはひきこもっていて、あらゆる関係から脱去している。「実在的オブジェクト」のもつ「実在的性質(本質)」は決して顕在化しないので汲み尽くし得ず、オブジェクトはただ、「感覚的オブジェクト」を通じて他のオブジェクトと関係し、その「感覚的性質」のみを外に表す。ここで、われわれに見えている感覚的オブジェクト同士の関係が「緩衝因果」と呼ばれ、脱去する実在的オブジェクトとそれを代替する感覚的オブジェクトの関係は「代替因果」と呼ばれる。オブジェクトの脱去が強調されるのは、二つの事物の関係を能動/受動という形で単純化することを避けるためでもある。
実在的オブジェクトとしての「わたし」が、感覚的オブジェクトである木に魅了され、没入しているとする。この時、実在的オブジェクトとしての「木」は、わたしのまなざしから脱去している。そしてこの「(実在的)わたし-(感覚的)木」関係が成立するのは、「わたし」と木の両者の関係を眺めている、第三の実在的オブジェクトの存在の志向性があってこそだと、ハーマンは言う。わたしが木に魅了されるという関係は、第三者パースペクティブのなかで起こっているというのだ。ここで起こる「わたし-木」の関係を、ハーマンは「第三の者があるための機会原因」という。
(ハーマンは、実在的「わたし」が感覚的「木」を見るのと同様に、実在的「木」が感覚的「わたし」を見るというパースペクティブも同等に成り立つとしている。)
しかしこの時、実在的「木」がそれを見るわたしから脱去しているように、実在的「わたし」は、それを見る第三者から脱去している。ここには脱去の「入れ子」状態があり、しかも、関係と切断(脱去)とが切り離せない形で混じり合っている。関係があるところに必ず脱去がある。実在的「木」はわたしから脱去し、実在的「わたし」は第三者から脱去しているが、「わたし-木」関係は、第三者によって成り立っている、という不思議さ。この三者の関係は、パースによる記号過程の三項関係(対象、記号内容、解釈項)とパラレルであり、ここで解釈項に当たる第三者もまた(ストラザーンが批判する「旅人」とは異なり)、別の実在的オブジェクトのパースペクティブのなかでは対象や記号内容になり、そのパースペクティブに対して脱去する。
《すなわち、即自aが即自bを思考するならば、即自bは即自aにとって対象になっており、ここには相関的な関係がある。しかしながら、即自bのうちにもなんらかの主客の相関性はあるのであり、この二種の相関性は断絶してもいるのだ。このとき、素朴実在論的に、〈別様な〉即自状態を信じることは、複数の相関性を、安定的な媒介項としての主体を介して繋ぎ、それとともに唯一の客観的世界が形成される、相関性のプロセスとして肥大させることに他ならない。逆にいえば、ここでの二種の相関性のうちにある断絶を否定しないことによって、われわれは相関的プロセスの《外部》に抜け出すことができるのである。》(p165)
さらにハーマンは、第三者パースペクティブのなかで成立した「わたし-木」関係は、それ自体が一つの実在的オブジェクトとなり、それはその内部に組み込まれた実在的「わたし」からも脱去するという。どんな関係も、ただちに新しいオブジェクトを発生させる。関係=オブジェクトであり、それ自身がモノとしてあらゆるパースペクティブから脱去する実在性をもち、その実在性はその関係を構成する他の実在性には還元されない。関係=オブジェクトの実在性は、それを構成する要素へと解体(下方解体)されることはないし、逆に、それをとりまく外部の諸関係の布置に解体(上方解体)されることもない。オブジェクトは、還元主義的な下方解体によっても、関係主義的な上方解体によっても、解体されない、脱去する実在性をもつ。実在的オブジェクトはこのようにして、部分と全体、階層上位と階層下位といった背反的な位置関係を裏返し、媒介と対象とを裏返しながら、ぎこちなく次々と異なるレイヤーと接続しては、脱去していく。
(たとえば、わたしとあなたの婚姻関係は、それ自体オブジェクトであり、それはその構成員である「わたし」や「あなた」に還元されない---「婚姻関係=わたし+あなた」ではない---し、夫婦をとりまく社会的、人脈的関係性にも還元されない、下からも上からも脱去する実在性をもつ、と。)
《ハンマーなどの道具は、内部でそれを構成している諸要素や、それが人間などと外的に持つ関係の、どちらにも還元され得ないが、それはある実在的オブジェクトが描く関係が、別の実在的オブジェクトの内部に置かれることによって袋詰め=入れ子状に接続するからであり、しかもマルブランシュの機会原因論のように、究極的な一つの実在が想定されるのではなく、外部に現れる実在的オブジェクトの役割も持ち回り式になっている---それゆえ、実際のところそれは外部でも内部でもない---からである。》(P168)
ここで「入れ子」とは、マトリョーシュカ的な入れ子ではなく、袋aの中に袋bが含まれていたとして、それをひっくり返して、袋bのなかに袋aを詰めることも可能であるような「袋詰め」的入れ子であって、この場合は内部も外部も関係なくなる。
ただ、ハーマンは、結婚関係やビジネス・パートナーシップやEUといったものまでを「オブジェクト」と言うのだけど、しかしこれらのような、複雑で不安定で、しかし大きな変化を孕みながらも一定の持続性をもつオブジェクトの「持続性」については上手く説明できていないとされる。
●そのようなハーマンの弱点を補強するために登場するのが、ジェイムズの経験一元論とパースの記号過程一元論とを表裏一体のものとしてみる見方だ。
ジェイムズの純粋経験論には二つの仮想敵があり、一つはヒュームの、それぞれの経験がバラバラにあり連結しようがないというもので、もう一つは新カント主義の、バラバラの経験が一である精神によって綜合されるというもの。それらに対してジェイムズは、ある経験から別の経験へと推移するということ自体が、一つの経験としてたちあがるとする。推移としての経験は、始まり(経験)と終わり(経験)をもつ。ある経験から別の経験への推移としての経験は、それとは別の推移についての「見通し」を与える。このとき、ある推移の経験が他の推移の経験の「代理」をなす、とする。つまり、経験とは別に「精神」というものがあって、その精神が現象を表象するのではなく、経験そのものが他の経験を代理するのだ、と。純粋経験論には主体と対象との前もっての区別はなく、ある経験が予期をし、それにつづく別の経験がその予期を充足することによって回顧が起り、その時に事後的に、予期した前の経験が主体となり、充足を引き起こした後の経験が対象となる。主体でも対象でもない純粋経験それ自体が、連接の位置関係によって主体にも対象にもなる。ジェイムズは、先の経験が後の経験によって主体化することを「私有化(横取り)Appropriation」と呼ぶ。
《注意すべきなのは、このとき後の経験が対象化され、予期が充足されるまでの期間は、まちまちであっていいということだ。《過去の》経験からなされる予期は、はるか後に経験される対象において充足されてもいいし、また類似した性質をもつ対象によって充足、検証されることもあるだろう。》(P74)
このような経験の推移は単線的なものではなく、先行する複数の経験と、後続の複数の経験との関係が問われなければならない。絵の具店に置かれた、未だ主客未分化である多様な絵の具たちから、キャンバスの上に置かれた(文脈化、主体化された)多様な色彩による図柄が生じるというように(あるいは、絵の具店の絵の具から異なる何枚もの絵が描かれるように)、推移する経験は、予期と充足の双方において、多数的であり、それらの複雑な絡まり合いが生じているはずだ。
《(…)オブジェクトと精神の双方に、複数性とその組み合わせ、組み合わせの多様性のうちでの選択を想定するのであれば、潜在的な組み合わせとその布置という、いわば水平的な経験のつらなりと、オブジェクトをめぐる予期、充足、制作、誤謬の修正といった、垂直的な経験の連鎖(誤謬の修正には、水平の要素も絡んでくる)の、二種のベクトルを考えねばならない、ということである。》
このようなジェイムズの経験一元論の「裏返し」として、パースの記号一元論が考えられる。
《(…)シンボル記号を操る人間が、より反射的な行動様態を見せる動植物などの存在、あるいは単に持続しているだけの岩や星よりも《優れている》とするなら、それは他の存在が見せる、反復という意味での持続(インデックス記号)を理解したうえで、その裏をかいた応用行動をしめし、それによってみずからを持続させるからである。このとき、より単純で反復的なものは、シンボル記号を機能させる部分としてのインデックス記号として、シンボル記号を操るものの思考のうちに吸収されてしまう。》(P193)
このように、世界そのものを記号過程とみる。とはいえここで、動植物もまた、捕食者や獲物を欺く様々な生の技巧(メーティス)をもつので、逆転し、人がそこでインデックス記号の役割をはたし、シンボル記号として機能する動植物の「思考」に吸収されてしまうこともある。このようにして、人と動植物とはパースペクティブを奪い合う。そこには、動植物はその身体を用いてメーティスを行うが、人は道具を用いて行うという違いがあるだけだろう。そして、シンボル記号を用いたメーティスを用いる必要もなく、人や動植物よりも長く持続できる岩や星が、世界=記号過程においてはるかに優位だとみることもできる。さらに、シンボル記号を用いて行動する人にとって、岩や星といった恒常的な参照物をマッピングすることが世界を理解することであり、岩や星なくしては、記号過程=世界への理解や働きかけそのものが成立しない。
ここで、記号過程としての世界における、人、動植物、非生物の関係として次の三つのパターンが考えられる。(1)人間(あるいは動植物も?)により非生物の恒常的参照物(星や山など)がマッピングされ、それにより経験と経験がヴァリエーションを孕みつつ持続する。(2)人間と動植物とがメーティスを争いつつ、互いを自らの記号過程のうちに吸収し合う。(3)人工的な道具が、星や岩のような恒常的な参照物として機能する。さらに、(2)と(1)、(2)と(3)が組み合わされたパターンも想定できる。この場合、(2)のように、競合する者たちがどちらか一方への吸収される排他的闘争ではなく、競合したままで共に成立し、持続する場合を考えることができるようになる。(2)と(3)の場合を、ある道具をめぐる複数のマッピングが競合し、相互包摂しあう状態と考えると、ストラザーンが分析している道具=モノ論と重なり、(2)と(1)の場合を、人と動植物との間で、同様のマッピングの競合と共立が起る状態と考えるならば、ヴィヴェイロス・デ・カストロパースペクティブ論と重なる。
《このように記号過程という概念を導入することで、オブジェクトが発展的に成立し、持続し、ときに他のオブジェクトのうちに吸収され、また相互包摂される機序が、次第に明らかになってくる。またそれが、アニミズム的な世界像と親和性が高いものであることも、理解されるようになるのだ。》
ここで、ハーマンの議論に必要なのは、オブジェクトの擬人化(実在的「木」もまた感覚的「わたし」を見る、とか)ではなく、アニミズム化なのだと主張される。
《ジェイムズの純粋経験論では、経験する主体と経験されるオブジェクトが、経験と経験の連接における位置関係で区別されるに過ぎず、実際のところ中性的なものであることが主張された。このとき経験する主体は通常人間が想定されているが、しかしパースの記号一元論を導入するなら、《思考主体》はさまざまな記号過程そのものの展開と応用である。検証の過程で経験的に現われざるをえないもろもろのオブジェクトを媒介にしつつ、経験一元論と記号一元論との交差交換的な対話が繰り広げられるなかで、両者は一体のものとして発展してゆくのだ。》
思考主体が《さまざまな記号過程の展開と応用》であるとするなら、「思考」は、人間においてもオブジェクトにおいても、どちらにとっても「外的なもの」ということになる。そのような意味での、機械原因論的なアニミズムを考えることができる、と。
(あともうちょっと、か。)