2019-06-10

●以下は、『身体(ことば)と言葉(からだ)(山縣太一+大谷能生)からの引用。

《生きて死ぬぼくたちの生活は、一度切りの出来事なのです。》

《演劇とは---もしかするとあらゆる芸術がそうなのかもしれませんが---このような、ぼくたちの一回性に対抗するためのフィクションです。そこではある出来事が、「その場にいなかった人でもそれを共有できる」という可能性へと開かれるかたちで上演されます。》

《演劇とは、そこで語られる物語の内容とは関わりなく、「一回切りの生を担うそれぞれの身体が、同じ出来事に繰り返し立ち会う」という奇跡を想像的に実現させる場所なのです。これはおそらく「演劇」でなければ生み出すことのできない経験です。》

●上記の引用部分に一つだけ疑問があるとすれば、それが本当に「演劇」というものにだけ可能なことなのだろうかという点だが、しかし、それはいったんおいておく。重要なのは、反復されるものとしてのフィクションは、あくまで「出来事」であって、いわゆる「物語」ということではない。

《この媒体(俳優・身体)は、物語を伝えるためだけの必要をはみ出して、いわば、充分すぎるほど濁っている。この濁りは、物語を見ようとする観客の視線を阻み、その想像力を「いま、ここ」で起こっている出来事の方向へと開きます。ここでは、フィクションはすでに終わったものではなく、俳優と観客の現在形の身体を通過して、その前方に、いままさに作られてゆく状態で立ち表れるものなのです。》

●繰り返されるもの(フィクション)とは、物語ではなく出来事であり、それは「いま、ここ」で「いままさに作られていゆく状態」という形で反復される。反復されるもの(フィクション)は、反復されるその都度に、改めて創造され、起こされる出来事である。

《異なった状況で、同じ出来事を繰り返すこと。---あらためて、これは本来不可能なことです。しかし、絶対に二度と同じことは起きないぼくたちの生にあって、俳優は、言葉と身体を使って、その時間の流れを捻じ曲げ、押し止め、再活性化させて、ぼくたちに「同じ経験」が可能な「作品」という場所を切り開いてくれる。》

●本来一回限りであるはずの出来事を、フィクションとして反復させることが可能であり、わたしたちは、そのための(もっとも基本的な)媒体として身体と言語とをもっている、ということになる。その意味で、演劇や音楽は、もっとも根源的な芸術なのではないか。もっともミニマムな形で演劇が可能であるからこそ、あらゆる芸術が可能なのだ、と。

●ただここで、「身体と言葉」という問題設定よりも、「身体と記号」という方がいいのではないかとぼくは思った。ここで「記号」とはパース的な記号だ。「身体と記号」という時、身体はまず解釈項として記号過程の内部にある。そして、身体は、記号過程のなかで、それ自身が対象でもあり得、記号でもあり得る。

身体と言語というと二項対立的だが、記号過程という三項関係のなかで、身体はその都度くるくると役割を取り替えていく。というか、複数折り重なる記号過程のなかで、身体は常に、同時に解釈項でもあり、対象でもあり、記号でもある。

(身体と言語という二項で考えるより、同時に、解釈項であり対象であり記号であるものとしての身体と、それが位置づけられる記号過程のありよう---その多層性---を考える方がよいのではないか。)

(「身体と記号」という構えで考えることが可能ならは、身体それ自身が既に、同時に解釈項であり記号であり対象でもあるのだから、言語獲得以前にも演劇はあり得た---というか共有可能なフィクションはあり得た---ということになる。)

●以下はまた、上とはちょっと話がずれる。

身体は記号過程の内部にあると同時に、身体の内部にも記号過程がある。たとえば、自律神経と心臓と血圧の関係を考えると、解釈項と対象と記号の関係にあるとも言えるのではないか。身体内部にも、このような記号過程が無数の階層として折り重ねられている。

身体の外側にあって無数の階層として折り重ねられる記号過程と、身体の内側にあって無数の階層として折り重ねられる記号過程があり、そして、その外と内との境界面として、どちらにも還元されない一つの「わたし」があると言える。

この時の「(境界面としての)わたし」はハーマン的なオブジェクトとしての「わたし」であると言えるから、あらゆる関係から(外・上に対しても内・下に対しても)脱去している。しかしこの実在的対象としての「わたし」によって、(外と内との境界面上にあらわれる)記号過程における様々な解釈項(思考や感覚)は、一つの「わたし(の心)」へと統合される、と考えることが出来るのではないか。

(統合される、というより、帰属させられ、配置される、と言うべきか。)