2019-06-11

●『さらざんまい』、第九話。六話までの前半が、主に、穴と管(肛門と直腸)、吸引というイメージに主導されていたのに対し、七話以降の後半では、突起物と管(男性器)、発射というイメージが台頭してきている(拳銃というアイテムが頻出し、そこから頻繁に弾が発射されるし、カワウソの形の人形焼きはあからさまに男性器のイメージだ)。前者を象徴するのがカッパであり、後者を象徴するのがカワウソだと言える。

七話までに出てくる(肛門的存在と言える)カバゾンビたちの欲望は、どれも性器的、性行的な快楽に直接的に結びつくものではない倒錯的なものだったのに対し、後半になって前景化する、玲央と真武との間、あるいは真武とカワウソの間でとりかわされる欲望は、性行的な接触を伴うものであり、男性器(人形焼き)を媒介とするものだ。そこには肛門的なイメージがない。

(『さらざんまい』に登場する「穴」は管とつながっていて、肛門・直腸、あるいは男性器・尿道というイメージであり、これまでに女性器的なイメージは出てきていないように思われる。)

九話では特に、人形焼きと拳銃のイメージが強く前に出てきている。人形焼きは性的(性器的)な欲望を介する相手との関係にかかわり、拳銃は(ホモソーシャルな社会における)男性的な能動性と権力抗争にかかわっている。玲央と真武とカワウソの間に人形焼きがあり、悠と誓と暴力団たちの間に拳銃がある。十歳の悠は、球(サッカー)を捨てたが、弾(拳銃)は捨てなかった。

(前半と後半の中間とも言える七話に出てくるカパゾンビは、「球」を集めていた。ここで「球」とは、肛門と男性器との間にある睾丸的な感覚をあらわすのかもしれない。)

『さらざんまい』で拳銃を持つ登場人物は、 玲央と真武、悠と誓であり、つまり彼らは男性器をもつ大人の男である(悠は既に銃を撃って人を殺した---手を汚した---「経験」があり、 一稀や燕太のような「少年」ではない)。とはいえ、この世界に女性器的なイメージは存在しないので、男性器は生殖能力を持たない。そのせいか、『さらざんまい』では血縁関係が希薄である(「血」の問題は相対的でしかない、一稀にとっては実の母より血のつながりのない弟の方が重要である、など)。故に、悠と誓の関係も、血のつながりというより(ホモソーシャルな関係性における)義兄弟的なものだと考えられる。

九話では、男性器を持つ者の、大人の欲望(による関係)、大人の社会的能動性(による関係)が破綻する。玲央の真武に対する思い、悠の誓に対する思いは、行き場を失う。

男性器(カワウソ帝国の力)を媒介として真武と関係することに失望した玲央は、「希望の皿」による真武との関係の回復をより強く願うことになる。しかし一方、(玲央から銃で撃たれた)燕太の命を救うために、一稀たちもまた希望の皿を必要としている。

(『さらざんまい』の世界における唯一の男女カップルは、ケッピと吾妻サラであろう。二人の間には、キュウリという、一応男性器的にも見える媒介的イメージもある。九話では、ケッピの破壊と再生が描かれ、そこに吾妻サラが深くかかわるのだが、吾妻サラという登場人物の位置づけが、ここまできてもいまいちよく分からない。)