●思弁的空間性と思弁的身体性。下に引用するのは、以前ぼくが書いた「グリーンスリーブス・レッドシューズ」という小説の書き出し部分。異なるスケール感の共立、言葉が発せられてから届くまでの距離(伝聞的空間性)の伸縮と混線、主客の混交、仮定と確定の混同、類比的な短絡、だまし絵的な構造とその変化、遠近法的透明性と迷路的な不透明性の共存など、三次元上では表現できない空間に身体が貫通されている状態、あるいは、三次元空間の上では不可能な建築物のなかに身体が置かれている状態、というイメージ。そのような状態のなかで、あたかも、他人(あるいは物)に出会うように自分に出会い、自分に出会うように他人(あるいは物)に出会う。
「群像」2013年8月号に載っています。
http://gunzo.kodansha.co.jp/18928/25902.html
姉は、あの男が過去につき合ったすべての女性たちがそうだったように帽子屋で働いていた。木曜と金曜はパンと水だけで過ごした。週末が近づくと自分の手足がとても遠くにあるように感じられるという。あんなに遠くにある手がわたしの指示通りにパンをつかみ、ちぎり、そしてそれを正確にわたしの口元にまで運んでくることが奇跡であるように思えるのだとよくわたしに漏らす。姉にはしばしば、自分の両腕が抱えることの出来る空間の大きさに途方に暮れることがあるという。ベッドに腰掛けて足の爪を切る動作を太陽の周りを廻る地球のようなスケールでイメージするのだと、姉がわたしの彼に語っていたことをわたしは後になって彼から聞いた。彼は、それを聞いて姉の腿から足先へのびてゆく素足の遠くなだらかな稜線と質感を想像してとても興奮したと言いながらわたしに迫り、耳を噛んだ。わたしの彼はバカなのだ。
姉の目のなかで、わたしこそが眼差しである。今、わたしには姉が見ているものが見える。姉は、木曜の仕事帰りのバスの窓から外を眺めている。バスは橋にさしかかり、窓からはネオンを反射してきらきら揺れる水面が見えている。さざ波立つ水面は黒い紙の上に黄色や青や緑色の紙を細かくちぎって貼りつけたように平板で、姉にはその川面が、膝の上にあって両手を添えているハンドバッグよりも遠くにあることが上手く実感できない。
水道管が破裂して、その修繕工事で大通りが閉鎖されているためバスは普段とは異なる迂回路を通っていた。帽子屋のあるビルに近い停留所から回りくどくジグザグ曲がって自宅アパートに至る迂回経路を、姉は腹とバッグの間にある空間の内側にイメージしている。平板に見える川面も当然その内側に位置していたし、姉が住むアパートの部屋もその内側にあるはずだった。だからわたしも当然、姉の腿から膝の間のどこかにいることになる。
明日の朝食となるパンを買い忘れている姉は、バスを降りてから近所のコンビニエンスストアに立ち寄るはずだし、そこでミネラルウォーターと間違えて炭酸水を買ってしまうはずなのだが、バスに乗っている今からそれはもう既に決まっている。翌朝、目を覚ました姉が冷蔵庫からそれを取り出して飲み、むせてしまうところをわたしは想像する。
パンを食べる姉は当然それを排泄する。しかし木曜と金曜の空間の捻じれた姉の口と肛門とはなめらかには繋がっていない。姉が木曜と金曜とに口にしたパンと水に限っては、わたしの肛門と尿道から排泄されることになっている。そうなってしまう複雑な経路が姉には細部に至るまで明確に把握されているようだが、数学にめっぽう弱いわたしにはおぼろげな筋道さえイメージできていない。わたしはけっきょくのところ、そういうこともきっとあり得るだろうという形でそのことを納得し、曖昧に受け入れている。だからわたしは木曜と金曜には一切なにも口にしないことにしている。姉の排泄物とわたしの排泄物とを混じり合わせてしまうのは嫌なのだ。