2021-11-29

●スケールの問題。大雑把な言い方だが「大きな絵」を観る時、わたしの身体は絵からやや距離を取る。その時のスケール感は、建築のスケール、作品のスケール、そしてわたしの身体のスケールの三つの項の関係によって決定される。三つの項の関係から導かれるスケールは安定していて、揺らぎにくい。大型絵画の前でわたしが色彩に包まれてある時、色彩は常にわたしより大きい。

しかし、たとえば熊谷守一の小さな絵を、のぞき込むように近づいて観る時、わたしの視界から建築のスケールは失われ、のぞき込む姿勢の先にある視線と、その視線に捉えられた作品との二項の関係になる。その場を支える基底的な空間---参照項---である第三項が失われることで、スケールは可変的、可塑的になる。小さなのぞき穴の先に見えているのは、顕微鏡によって拡大された細胞なのか、のぞき穴の向こうに大空がひろがっているのか、視線と作品の関係からだけでは決定できない。熊谷守一の絵の色彩は、わたしより大きいのか小さいのか分からない。その時わたしは、わたしの身体のスケールをも見失う。

(デュシャンの遺作が、壁の穴を覗くという形式になっているのは、覗くという行為によって悪の気配や後ろめたさや罪の感覚を身体がまとうということだけでなく、のぞき穴が周囲の空間---基底的な空間---を消失させることで、通常のスケール感の作動を停止させる効果があるからでもあろう。)

また、映画よりも演劇の方が、よりスケール感が可変的、可塑的であるだろう。『不思議の国のアリス』を映画にするとき、大きくなったり小さくなったりするアリスを表現するためには大変に苦労がいると思われるが、演劇であれば、ホワイトキューブのような空間のなかで、演技と演出を工夫するだけで、アリスは簡単に大きくなったり、小さくなったりすることができるだろう。また、そのように演じさえすれば、同じ舞台の上に、巨人を演じる俳優とアリを演じる俳優を同時に置くことも難しくない(たんに、大きくなったり、小さくなったりしたように振る舞えば、大きくなったり小さくなったりするだろう)。

(だが、たとえぱ関田育子の映像作品「盆石の池」には、映像であっても演劇と同等か、あるいは映像であるからこそ、それ以上のスケール感や空間の伸縮の自由度を実現することが可能だということが示されている。)

そして、「言葉」にはスケール感がない(実は、イメージや感覚にも、それ自体としてのスケール感はないのだが)。富士山という語と、地球という語と、ひまわりという語の、どれが一番大きいか比較することは出来ない(その指示対象を比較することはできるが)。語のスケール感を決定するのは文脈であり、つまり語や文の配置だろう(あるいは、語や文の配置と、それを読んでいるわたしの関係)。複数の語、複数の文による相対的な配置や構成によって、ある語のスケール感がはじめて決まるし、しかし、決まったと思っても後の展開によっては覆るかもしれない。言葉のスケール感はとても不安定で、そして可塑性や自由度が高い。それは、言葉は、それが存在するための基底的な空間がない(図像が二次元空間に存在し、物が三次元空間に存在するというようには、言葉の存在する次元は確定されない)ということから来ると同時に、言葉というもののもつ肌理の粗さ、解釈格子の粗さによるところが大きいと思う(言葉には、複数の異なる文脈を受け入れ可能なだけのブランクの大きさがある)。

(とはいえ、物のスケール感は基準となる枠組み---たとえば建築空間---との対比によってはじめて決定されるし、図像のスケール感は基底的フレームとの関係---あるいは複数のカット間の相対的関係---によって決定されるという意味では、物も図像も、スケールは相対的で可変的ではある。しかし「言葉」の可変性はより大きくより不安定だと考えられる。)

ぼくが小説を書くのは、言葉のもつこのようなスケールの可塑性、可変性の可能性を追求したいため、というところも大きくある。