●昨日の近代美術館での小林耕平のパフォーマンス(というか、ぼくはあれを普通に小林耕平による「講演」として受け取ったのだが)を見聞きしながら、もしこれを西川アサキが聞いていたらどう思うのだろうかと考えていた。これを見聞きした西川さんの感想を聞きたいと思った。
●ここで小林耕平がすごいのは、ガチでタイムマシンの制作を考えているということだと思う。これは、比喩でも意味でも解釈でも思考実験でもなくて(アート作品などではもっとなくて)、言ってみれば「人体実験」に近い何かではないか。実際にタイムスリップするというのはどういうことなのか、どうすればその可能性に近づけるのかが「本気で」追及されているという前提をまず受け入れなければ、ここでの小林耕平の思考に触れることは出来ないのではないか。
(前に「群像」に載った西川さんのエッセイに、デジャヴを起こす装置の研究をしているという友人の話が出てくるけど、ここで小林耕平がやっていることはそれにすごく近いのではないか。)
●昨日の日記で「くしゃみを誘発するコヨリ」という言い方をしたけど、あの場に設置された数々の装置、その使用法解説としての映像、そして山形育弘をパートナーとした対話はすべて、いろいろなコヨリを作ってみて、それを使っていろいろなやり方で鼻の穴を刺激してみて、どのコヨリによるどの刺激の仕方が一番「くしゃみ(ここではタイムスリップ)」の予感に近づけるのかを試してみる、という実験=実践の一部であったのだと思う。そこで小林耕平は実験者であると同時に被験者でもあり、それはパートナーである山形育弘も、そしてその場にいた観客の一人一人も、同様なのだと思う。それはきわめて具体的で身体的な探究であり、それを、意味や解釈の次元で受け取ろうとすることは間違いではないかと思う。
●例えば、山形育弘によって次のような体験談が語られた。中学生の時、家でエロ本を見ていたらいきなり弟が彼女を連れて帰ってきた。急いでエロ本を隠さなければと焦ってテンパってしまい、思わず庭に出で土を掘ってエロ本を埋めた。その時以来、コンビニなどの成人図書のコーナーに行くといつも「土」を感じるようになった。ここで問題になるのは、このエピソードのもつ意味は何かということではないと思う。そうではなくて、このような、自分のものではない他人の体験談を聞くことで、自分もまた、コンビニのエロ本コーナーに「土」を感じることが出来るのかという具体的なことなのだ。おそらく、エロ本コーナーに行って「このエピソード」を想い出すというだけでは、まだ「意味」の次元に留まっている。そうではなく具体的な感覚としての「土」を、もし可能であれば山形育弘が感じた「土」を感じることが出来るのか、ということなのだ。
●このパフォーマンス(と、とりあえずは言うけど)の元になったという伊藤亜紗によるテキストには次のような部分がある。≪以前テレビで、ある女優が「スイカはカブトムシの味がするからきらいだ」と言っていた。≫この、「スイカはカブトムシの味がするからきらいだ」というごく短い言葉のなかに、人間が世界ともつ関係のあり様が凝縮されて表現されているように思う。
ただ、ここで伊藤亜紗による分析に納得できないのは、「スイカはカブトムシの味がするからきらいだ」という感覚の生成には、スイカの味(女優の舌)というイメージと、スイカとカブトムシとの関係というイメージの他に、カブトムシ(あるいは昆虫類)に対する嫌悪という感情が基底面として作用していることが忘れられているように思うからだ。つまり、女優、スイカ、カブトムシの間で起こる「属性の貸し借り」は、「嫌悪感という感情」という力動によって作動スイッチが入る。例えば、山形育弘におけるエロ本と土の結びつきが、「満足できなかった(途中で失調した)性欲」という力動によって導かれているのと同様に。
●このような、「属性の貸し借り」における感情という基底面の作用をどのように考えればよいのだろうか。もし、属性の貸し借りの作動スイッチを入れるものが「基底にある感情」であるとすれば、それ(貸し借り)は結局主観的な出来事に過ぎないということになってしまいかねない。
だが、感情というものを必ずしも主観的なものと考える必要はないのかもしれない。例えば、もしぼくが、山形育弘のエロ本-土というイメージの連結を同様に生々しく感じることが出来るのだとすれば、おそらくそこに「中学時代の蒼い性欲」という感情の基底面が共通して作動しているからだと言える。それが言えるのならば、そのような感情は決して特定の主体に限定されるものではないということになる。あるいは、ぼく自身は昆虫に対する嫌悪感を特に強くもたないが、それでも「スイカはカブトムシの味がするからきらいだ」という言葉に一定のリアリティを感じるくらいには、その嫌悪の感情が(それが理解できないわけではないくらいには)共有されているとも言える。つまり、感情はそのまま主体の基底面ではなく、感情は主体によって閉じられてはいないと考えることも出来る(むしろ感情のひろがりのなかに主体が位置をもつ)。
●批判的な言い方ばかりになってしまって申し訳ないのだが、もう一つ納得できないのは、「看板が立っている」とか「瓶の口の部分」といった擬人的な表現について、それが主に「言葉」の作用によるものだというニュアンスで書かれている点。つまり、テキストでは、「人が立っている」と「看板が立っている」とがどちらも「立つ」という同様の出来事として成り立っている(つまり、属性が貸し借りされている)のは、言葉による媒介のおかげだという風に書かれていること。しかしそれは違うのではないか。例えば、人の口と瓶の口とが同じ「口」と表現されるのは恣意的なことではなく、人と瓶との間に構造的な類似性(アナロジー的な関係性)が直感されているからではないだろうか(穴がありそれが管につづき内部がひろがる)。まったく関係のない異なるモノが言語によって関係づけられているのではなく、言語以前に直感される構造的類似があるからこそ、同一の語で示される。勿論、そのような構造的直感が語の共有によって一層強化されるということはあるだろうけど。
何を言いたいのかと言えば、ここには言語への過剰評価と、構造的類似性への軽視がみられるということ。このことが、それまでの手触り感のある具体例から、一気に結論部分で「山」という突飛なイメージへとジャンプしてしまう原因ではないだろうか。つまり、看板や瓶であれば、人、あるいは「わたし」と構造的な類似性が直観的に見て取れるので「属性の貸し借り」は起こりやすいとしても、構造的な類似性を見出すのが困難である「山」へと一気に飛躍することは、そんなに簡単に可能なのだろうか(しかも千の属性を貸与するなど…)、と。属性の貸し借りの媒介が「言語」や「意味」だけであれば、言語的なアクロバットは可能かもしれない。しかし実は、属性の貸し借りを可能にするのが構造的類似であるとするならば、類似のないところに、類似のない属性を貸与することは容易ではなくなる。意味や解釈や思考実験のレベルではなく(意味のレベルでの納得だけでは本当にタイムマシンをつくったことにはならない)、ガチに、人体実験としてタイムマシンを実現させようとするのならば、そう簡単にはいかないのではないか。そこにはまだ、きちんとそれを踏まえ、一つ一つ越えて行かなければならない段階がいくつもあるのではないか。看板が立っていることと人が立っていることとの類似は容易に発見できるが(反転は容易に起こり得るかもしれないが)、山が「立っている」という出来事を起こすためには、間にもっともっと多くのステップが必要になるはずだ。
●おそらく小林耕平の思考(人体実験)はここで、足りない段階を埋めるための手がかりを具体的に作り出そうというところからはじまっている(たとえば、瓶の口はすぐ直観されるけど「スイカ」の口はどこにある?、という風に、これは「問い」をはぐらかすということではなく、ど真ん中直球のベタな「問い」なのだ、この時、単純な直観的アナロジーは作動しないので、何かしらの変換式が必要となり、身体的な次元での変換式を探り出すために様々な装置---コヨリ---の媒介が必要となるだろう)。
批判的な書き方をしてしまったが、つまりそれは、伊藤亜紗によるテキストが、そこからさらにガチに練り込まれるに足りるだけの重要な示唆を含んでいるということを小林耕平が感じ取ったということだろう。